2013年4月4日木曜日

さびしい海に囲まれて -日本現代詩への希求


『幻実の詩学:ロマン派と現代詩』監修 田村英之助 編集代表 太田雅孝
一23四五六七八九○一二3四五六七八九○一二3四五六七八九○一二3四五六七
本文+注=20行*20字*2段*14・5頁=400字詰原稿用紙29枚

 日本は、さびしい。
 したがって、このさびしい国で詩作してきた日本の詩人たちもさびしい。彼らは、
「さびしさ」の原因を見つめる自我や世界への厳しい眼差しを欠き、海の向こうを望
む志向を欠いて、さびしさを情緒的にうたうことで一生を費やしてきた。
 「さびしさ」がとりわけ、「詩語」であるのは、それが記憶を媒介としているため
である。過去への言及無しに、「さびしい」という感情は発露されない。もともと、
「さびしい」ないし「さびし」は、『古語辞典』によれば、「本来あった生気や活気
が失われて、荒涼としていると感じる意。そして、もとの活気ある、望ましい状態を
求める気持ちでいる意」とある。1『広辞苑』では、「欲しい対象が欠けていて物足
りない。満たされない。心楽しくない。もの悲しい」と説明する。2いずれにしろ、
「さびしさ」とは、何かが欠けていて、それを回復したいと意識する心情を指すと説
明されている。しかし、「さびしさ」は、その欠落を是が非にも回復しようという努
力や、欠落した現状を変えようとする意志を含むのだろうか。「さびしがる」という
動詞ならば、多少は回復への意志を含むだろう。しかし、これは、詩語ではない。
 「さびしい」という言葉の定義が示す、欠けたもの・失われたものとは、日本人に
とって何なのか。また、その回復とは、いかにして行われるのか。あるいは、ほんと
うに回復を願っているのだろうか。どのような地平で、いったい、「さびしい」と言
葉を発することができるのだろうか。むしろ、「さびしさ」は、欠落を現状として追
認し受け入れた上で、なお満たされない状態を、大きな意味で鑑賞してゆくようにさ
え思える。
 具体的に、「さびしい」や「さびしさ」をうたう日本の詩作品を取り上げてみよう
。かって、若山牧水(一八八五ー一九二八)が、

  幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ   國ぞ今日も旅ゆく3

と歌った。これは、「中國を巡りて、十首の内」と題されて三首紹介されているうち
の一首であるが、若山牧水の暗示する、現在「さびしさ」に溢れる国を、もちろん、
中国地方だと考えるべきではなく、これは、日本という国、ないしは、日本を抱えて異国
を旅するじぶん自身への言及であろう。
 あまたの日本人論も、金子光晴(一八九五ー一九七五)の「さびしさの歌」に如か
ない。4「どっからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは」で第一行目が始まる
、この作品は、日本人が民族として抱え込む欠落の心情を明白に「さびしさ」で捉え
る。『落下傘』(一九四八)に収録されているが、執筆時期は、第二次世界大戦で日
本が敗れる三カ月前だと言う。5

  この国では、
  さびしさ丈けがいつも新鮮だ
 
日本文学のすべてに、金子は、「さびしさ」にもとづく詠嘆を見出す。「しかし、僕
の寂しさは、/こんな国に僕が生まれあわせたことだ。」と言う時、また、戦争さえ
も「寂しさ」のせいだとする時、彼自身も、詠嘆から逃れているわけではない。
 「さびしさ」と混同されがちな「悲しみ」は、同じ詠嘆でありながら、主に現状に
起因する感情へ言及する言葉であり、この意味で、「さびしさ」がはらむ時間の深み
を欠いている。たとえば、窮乏の生活を送った石川啄木(一八八六 ー一九一二)は
、悲しみの詩人だ。彼の有名な歌集のタイトル『悲しき玩具』がそれを指し示してい
るだけでなく、作品中でも、「悲しい」や「悲しさ」などの言葉を頻用している。彼
は、受認することができない現状を悲しむので、懐かしみの視線で過去を振り返るこ
とができない。
 もちろん、石川にも、「さびしさ」を歌う作品はある。たとえば、

  何がなしに
  さびしくなれば出てあるく男となりて
  三月にもなれり6
                    さびしさには、その言葉の本義に従って
、何らかの原因があるはずだが、石川は、「何がなしに」と歌って放置する。むしろ
、ここで指摘すべきなのは、原因を見つめる努力を必要としない地平にこそ、彼の作
品が屹立しているということだ。次の作を読めば、さびしさへの対策は、石川啄木ら
しいと分かる。

  さびしさは
  色にしたしまぬ目のゆえと
  赤き花など買わせけるかな7

彼は、現状に「さびしさ」の原因を求めているのだ。石川啄木に、「さびしさ」は似
合わない。いかにも「さびしさ」とは、現状を受け入れて安定した、余裕ある精神に
のみ許される。たとえば、主を失って浪々の身となりながら仇討ちを諦めなかった赤
穂浪士に、「さびしさ」は、許されない。また、失恋して日の浅い者は、「さびしい
」という感情を持てない。悲しみや辛さ、悔しさはあるだろうが、過去に対する余裕
と距離がない。したがって、「さびしさ」の訪れようがない。ときおり同じ漢字が用
いられる「寂(さび)」は、芭蕉の芸術の本質をなす美的理念であり、幽玄・余情美
に満ちた枯淡、静寂な境地を指すとされ、「さびしさ」とは別の意味を付与されてい
る。しかし、「さびしさ」と同様に、「寂」は、精神的な安定や余裕を必要とする。
 人間の本性から言えば、「さびしさ」の根源には、人が人として生まれて本能的に
抱く自己の死への恐れと、自己を超える自己を、この世に伝えたいとする欲求とがあ
るのかもしれない。プラトンの『饗宴』によれば、本来の人間の容姿は球形であった
が、ゼウスによって二つに切断されてしまった。それゆえに、皆それぞれ自分の半身
を求めて一緒になり、昔の本然の姿を回復しようとする。8この説明がいかに荒唐無
稽に聞こえようとも、エロース=「完全なものへの欲望と追求」と、人間の本質に植
え付けられている「恋」とを強調していることは了解されよう。人は、人を恋する。
その恋が阻まれるとき、人は悲しい。その悲しみを受容した上で、なお、人を恋い続
けようとするとき、人は、さびしい。
 だが、日本語における「さびしさ」には、ある種の危険が含まれているように思う
。日本人は、コミュニティへの帰属意識や所属意識をつねに抱え込んで生きている。
これを「和」の意識と言ってよい。わたしたちにとって、どこかのグループに属して
いることが年来の習い性である。今でも、小学生が駅で騒いでいたりすると、注意す
る際に、小学生たちの名前ではなくて、「どこの学校だ?」と所属を聞いてしまう。
親戚や知人の子供が大学を卒業して就職すると聞くと、その職業ではなくて、「どこ
にお勤めですか」と所属すべき会社を尋ねる。これは、日本人の「和」=所属意識が
出現するためだろう。
 日本人には、個の意識よりも、集団の意識がより重視されるとよく言われるが、9
もう少し言えば、わたしたちは、幾つかの段階に分かれた所属意識を同時に所有して
いて、それぞれの「和」をいつも大切にするようにと、伝統的に育てられてきている
。たとえば、夫婦に「和」があり、家族に「和」があり、勤め先に「和」があり、ま
た、クラブにも「和」がある。それら無数の「和」の重なりや反発を一段高いところ
で統括するのが、大きな和、すなわち、「大和」である。「大和」とは、万葉の頃か
ら、日本民族を意味してきた。
 「さびしさ」とは、多くの日本人の場合、あるべきひとつの「和」から疎外されな
がら、個にふみとどまるのではなく、別の、ないし、より大きな「和」に所属し続け
る場合に生じる。したがって、「さびしい」と言葉を発しても、ほんとうに失われた
「和」の回復を願っているわけではない。別の、ないし、より大きな「和」の地平で
、「さびしい」と言葉を発しているにすぎないのだから。10

 立原道造(一九一四ー一九三九)の詩作品は、全て、「さびしさ」をうたっている
と言っても過言ではない。彼の作品の中には、直線的な時間が流れていない。「かっ
て」と「今」と「やがて」という時間の流れは、西欧的に言えば、歴史的な秩序を持
っているはずであるが、彼の場合、「今」を転回点として、「やがて」が「かって」
へと向かう。それは、まるで、日本的な時間感覚を小さく相似形になぞるようだ。な
ぜならば、日本的な時間感覚とは、直線ではなくて、元に戻る円であるから。「和」
が「輪」と同音であるのは、深い意味があることなのだろう。
 立原道造の「さびしさ」を考える上で最も重要な言葉が、「夢」である。彼の「夢
」は、いつも過去に属しており、全て、後ろ向きである。11一般的には、将来への夢
といった言い方もされるが、立原の中の「夢」は、過去を夢見る。帰るべきところが
どこかにあるように思う。そして、いつも帰ることができる場所とは、故郷であるか
ら、さびしさは、郷愁に近い。
 「今ここ」で、立原は、記憶によって「かって」を振り返り、「かたみ」によって
「かって」を想起する。「かたみ」が、記憶のよすがであって、「かって」のよすが
ではない。「かたみ」が過去の現前をもたらすのだ。そして、過去の中で、夢と女が
一体化する。これを典型的に示すのが、「泡雲幻夢童女の墓」という言葉であろう。
12そして、一体化した夢と女とが過ぎ去った遠い向こうへ定置される。

  ぼくは身をやさしく任せ、諦めていた。  おそらくいちばん美しかった日々の
ため  に。13

「いちばん美しかった日々」は、現在にあるわけではなく、未来において目指すべき
ものでもない。いつも、それは、過去へ投げ返されてゆく。
 彼が、「今ここ」に、さびしさとともにいる。現在は、「さびしさ」の玩味、鑑賞
、賞味としてある。過去における行為を悔いているのではない。むしろ、過去におけ
る行為への悔いを愛でている。
 立原道造は、リルケ(一八七五ー一九二六)の読解に打ち込むと二一歳の時に宣言
したが、そのリルケは、『マルテの手記』で、詩人の心構えを示している。内容は、
日本的な、あるいは、立原道造的な想像力の働きと、まったく異なるものだ。リルケ
もまた、思い出を大切にする点では一致するが、彼によれば、待つことの重要性と感
情の放棄、および、思い出ではなくて思い出の中に甦る言葉が強調される。

  詩はじっと待つべきものだ。生涯をかた  むけて、それもできることなら、な
がい  生涯をかたむけつくして、意味と蜜を集  めねばならない。そして、やっ
と最後   に、十行くらいのすぐれた詩が書けるだ  ろう。なぜなら、詩は、世
間の人が考え  ているように感情ではないからだ。(感  情なら、だれでも、早
くからありあまる  ほど持っている)ー詩は体験なのだ。14

思い出を想起し、忘却し、そして、時間の経過とともに、思い出が精神の中へ溶け込
み、詩人自身から区別できなくなるときまで、忍耐強く待たねばならない。思い出だ
けでは、まだ詩は生まれてこない。詩人自身から区別できなくなって「初めて、ふと
した機縁に触れて、一篇の詩の最初の言葉が、思い出のただなかに浮かび上がり、思
い出を母体として生まれてくるのだ。」この後に続けて、リルケは、「だが、ぼくの
詩はどれも、そういう風にして、生まれたのではなかった。だから、詩ではないのだ
。」と言う。この台詞が立原道造の価値をおとしめるとは思わない。ただ、思い出そ
のものをうたう立原の姿勢とは異なる、孤高の詩人の姿がリルケに垣間みられること
は確かだろう。
 立原が日本の近代詩で果たすべきでありながら、そして、その予兆をはらみながら
、結局、果たし得なかったのは、個の屹立である。同じ地平を目指したはずの伊東静
雄(一九○六ー一九五三)は、「さびしさ」を詩作の前提とし、現在を生きることの
重要性を底流に抱え込んでいる。たとえば、彼の作品に関して瞠目すべき点は、否定
形とそれをバネにした跳躍にある。

  いったい其処で
  お前の懸命に信じまいとしていることの
  何であるかを15

  如かない 人気ない山に上り
  切に希われた太陽をして
  殆ど死した湖の一面に遍照さするのに16

  私はうたわない
  短かった輝かしい日のことを
  寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ17

伊東静雄は、否定形の中に生きた。彼は、二三歳までに、三人の兄をすべて失い、二
七歳の時、父を失って、借金を負う。『わが人に与ふる哀歌』を出版したのは、その
三年後であった。第二詩集『夏花』の一篇で、「若死にをするほどの者は、自分のこ
とだけしか考へないのだ」と断言している。18こうして、皆が死んで行き、その後、
更に切り刻んで余分なものを切り捨てた空白の現在に、あるいは、否定形によって浮
かび上がらせた現存の地平に、伊東静雄は、個を屹立させる可能性があった。彼にと
って、うたうべきは「現在=いま」である。「雪解けのせはしき歌はいま汝をぞうた
ふ」が、立原道造に捧げた詩作品「沫雪」の最終行であった。19たとえそれが日本浪

漫派と呼ばれようとも、彼の試みは、評価されねばならない。むしろ、日本浪漫派と
して、戦前の歴史の一齣へ貶める方が危険であろう。
 立原道造には、伊東静雄と違って切り捨てるのではなくて、肯定的・発展的に、個
を確立させる可能性があった。「ひとりぼっちの夜更け」などと感傷的な言い方をす
ることもあるが、20少なくとも「今ここ」で、彼は、つねに孤独であったから。

  灼ける熱情となって
  自分をきたえよ
  ためらって 夕ぐれに
  青い水のほとりにたたずむな21

これは、「後期草稿詩篇」にある詩句だが、この決意が実現していたなら、彼が続け
て未来へ向けて命じた以下の言葉が、実態化したかも知れない。

  愛と 正しいものとの
  よって来るところのものと
  きづくものとを 確かに知れ22

あるいは、次の一段落が示す命令は、一人称複数形で過去への決別と、決意された未
来への眼差しを浮き彫りにする。

  けふ 私たちは岬に立って
  眼をあちらの方へ 投げ与えよう
  ひろいひろい水平線のあちらへ23

作田啓一『恥の文化再考』でも指摘されているように、24西欧の家族は、近代的な個
人を育てる場であったが、日本人が近代的な個人として育つためには、家族に反抗せ
ざるをえなかった。なぜなら、日本においては、家族を通して社会の圧力や権力が浸
透してくるためである。この点を強調して考えれば、立原道造は、常に、家族ととも
にあり、したがって、日本的な意味での「自我」意識を元来内包していたことを、「
年譜」が示している。25ここで「自我」と括弧を使用したのは、果たして日本に自我
意識が育っていたのかを疑うためだが、立原道造は、母の反対で、美術学校進学を断
念し、第一高等学校に入学した。その二年生の秋、通則に反して、自宅通学とした。
二○歳の時の手書き詩集『日曜日』を母に捧げる。信濃追分や軽井沢を始めとして、
尾鷲、大阪、京都、奈良、名古屋、山形、仙台、舞鶴、松江、下関、若松、福岡、柳
河、佐賀、長崎などを旅したり、滞在したりしたが、つねに、帰るべきところがあっ
た。死後、受けた法名は、「温恭院紫雲道範清信士」と言う。「雲」という文字が印
象的だ。
 本来、過去への視線が価値あるのは、未来への展望を得ようとする時である。しか
し、日本的な夢とは、かってあったと仮想する過去の至福を求める不幸な幸福追求、
あるいは、幸福な不幸追求に他ならない。日本的な夢は、未来で果たされるのではな
い。時間的には未来へ向かっていながら、実態としては、過去へ遡る。こうした意味
で、立原が若くして死ぬことは、立原道造の書いた作品の内容が決定したわけでは、
勿論、無いが、しかし、詩作品の内容を立原が生きたと言えよう。
 周囲を海で囲まれた国土に育ち、それを生活の場とする点で、英国人も日本人と同
様であるが、イギリス・ロマン派の詩人ウィリアム・ワーズワース(一七七○ー一八
五○)は、伊東静雄と立原道造がそれぞれ果たそうとしたことを、彼らよりも一○○
年以上も前に、ひとりの詩人の中で既に果たしている。ここで、英国の覇権志向や、
ワーズワースの偽善的な面、ないし、奇妙な安定感をあげつらう必要はない。彼もま
た、過去を追憶し、その現前化を図る。「ルーシー」諸篇で死んだ女をうたう。しか
し、彼は、単に、孤独を記憶に結びつけて詩作したのではない。過去を追憶の中で現
在へ結合し、その過去を踏まえた上で、より豊かな生を生きようとする姿勢を示す点
で、近代的自我の幸福な一例と見ることができよう。
 これを典型的に示す詩作品として、有名な詩作品「水仙」があげられる。26この中
で、立原道造が死後にして初めて果たせた「雲」への変貌を、ワーズワースは、既に
生存中に果たしている。

  私が 雲のように 一人さまようた時
  雲は 谷や丘を高く越えて流れるのだが
  私は 突然 ひとつの群を見た
  黄金色の水仙の群だった

自らを「雲」になぞらえるだけでなく第二行目の「雲」へ現在形を使用することから
、ワーズワースが「雲のようにさまよう」孤独に誇りを持っていることが分かる。彼
の孤独は、世界の上を超然と放浪しながら、世界を見おろすことを許す。そして、こ
の孤独が、「群」と対比される。もちろん、「群」とは群衆ではなくて、水仙の咲き
誇る群を指す。このあと、水仙の描写が続くが、視点が変化し、「私」が空から降り
て、「水仙」と同じ地平に立つ、あるいは、「私」が地平に立って「水仙」が空に輝
く「星」となる。

  詩人ならば 必ず 楽しくなるに違いな   い
  そんなにも楽しげな仲間と一緒にいるの   なら
  私は見つめたーーただ見つめたーーしか   しほどんど考えなかった
  どれほどの富を その光景が 私にもた   らしたかを

「見つめれば、受容できていた」というのは、あまりにも単純すぎるが、それは、ワ
ーズワースの詩学の重要な点である。27最終連は、その受容の豊かさに気づく。

  というのは しばしば長椅子に横たわっ   て
  虚ろな 物思いの気分に浸っている時
  水仙たちがあの内なる目に輝くのだ
  あの孤独の至福である目に
  すると 私の心が喜びで満たされ
  水仙とともに 踊る

ここで、記憶を機能させているのは、孤独である。ワーズワースにとって、孤独とは
、過去の豊かさを現在にもたらし、現在を豊かにするものでであり、それゆえに、喜
びに他ならない。換言すれば、孤独こそが過去を蘇生しつつ深化させるのだ。

 ひるがえって、立原道造の場合、過去を豊かに現在化できない未熟さや、未来への
ヴィジョンの欠落が、彼を死なしたと言うのは、極言だろう。同様に、砂糖や甘味へ
の嗜好が彼を死に追いやったと言うのは、あまりにも、食養的発想だろう。しかし、
先に引用した立原の詩句を読み直せば分かるとおり、「確かに知れ」や「投げ与えよ
う」といった、いかにも翻訳調の言葉遣いが、これらの命令の不確かさを、あらかじ
め、言い当てている。もちろん、命令の背後に潜む、彼の強い決意を疑うわけではな
い。彼の後期の作品の中で、西欧的な自我意識が日本の風土に根付く可能性というよ
りも、伝統的な日本の引きずる「自我」意識を近代化する可能性を示しながら、可能
性のままで終わってしまったことを惜しんでいるに過ぎない。彼自身が脱出しようと
していたのは、杉浦明平の言う江戸=東京下町の文化のみならず、28日本=さびしさ
の文化でもあったろう。しかし、実際に彼が「ひろいひろい水平線のあちらへ」目を
向ければ、当時、そこには戦火しかなかった。彼が死んだ一九三九年は、既に日中戦
争が長引き、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発し、また、二年後には太平洋戦争
が控えていた。

 日本の歴史に「戦後」は存在しない。そして、戦後がなければ、戦後詩も現代詩も
ない。もちろん、ひとつの突出としての敗戦が、五○年前にあった。しかし、民族と
しての心情や性格がその本質的なところで、どれほど変容したと言えようか。あるい
は、変容するべく、努力がなされただろうか。吉本隆明が短いエッセイで、壷井繁治
や岡本閏という詩人が代表する「日本的庶民意識」が戦前も戦後も変わっていないと
一九五五年に指摘したが、29いかに変えるかは、勿論、吉本も含め、わたしたちの問
題である。そして、これは、一九九五年六月の「不戦決議」の文面そのものやこれを
めぐる国会論議へ言及するまでもなく、今なお、解決していない。
 先行する近代詩との連続性を無視すれば、現代詩はない。しかし、単なる連続なら
ば、それは、現代詩ではない。もちろん、詩人は、社会学者でも哲学者でもないので
、「大衆の中の孤独」や「近代的な自我」といったテーマで論陣を張る必要はない。
しかし、「さびしさ」や「寂寥」を詩のテーマや素材とする限り、日本における「さ
びしさ」を考察する義務と責任がある。そして、たとえば、つぎのような指摘にも耳
を傾ける必要があると思われる。

  日本と日本人は、未来に一体どんな目標  を設定していいのか皆目わからない
まま  に、ただ毎日毎日をあくせくと暮らして  いる。その結果、経済大国にな
ることは  できた。しかし物質的な繁栄だけで、国  家も個人もよろこびに満た
されるもので  はない。日本社会に最も欠けるものは理  想であり、日本人の行
動に欠けるものは  理想主義である。30

その理想主義を何と定めるかは言わない。しかし、この理想主義という言葉が前提と
するはずの、過去を批判的に継承した上での未来へのヴィジョンの必要性と、人類の
未来を信ずる心とは、詩作する上で、特に日本で詩作する上で、重要な点であろう。
さもなければ、いつまでも、さびしさだけが新鮮である国の心情におもねているほか
ないだろう。詩人は、本来、言語活動において未来を切り開く者であるべきだから。

注
  1 大野晋他編『古語辞典』岩波書店、一九七四、五六九頁。
  2 新村出編『広辞苑』岩波書店、一九六九、九○○頁。なお、「さびしい」と「
さみしい」のあいだに、本質的な差異は認められない。
  3 若山喜志子選『若山牧水歌集』(一九三六)岩波文庫、一九九三、一三頁。
  4 清岡卓行編『金子光晴詩集』岩波文庫、一九九一、一八七ー二○一頁。
  5 清岡卓行「あとがき」『金子光晴詩集』四八○頁。
  6 久保田正文編『新編啄木歌集』岩波文庫、一九九三、二八頁。
  7 『新編啄木歌集』一三七頁。
  8 田中美知太郎編『プラトンI』世界古典文学全集一四、筑摩書房、一九六四、
一一七ー六六頁。
  9 土井健郎『甘えの構造』弘文堂、一九七一、一六三頁など。
10 こうした日本人的な心理のメカニズムは、ほかにも、「かわいそう」という言葉
で確認できる。この言葉を発する人は、じぶんの立場が揺るがないことを知っている。
11 「はじめてのものに」や「夢のあと」(杉浦明平編『立原道造詩集』岩波文庫、
一九八八、一四頁、二六○頁)などを参照のこと。
12 『立原道造詩集』三六四頁。
13 『立原道造詩集』三九八頁。
14 ライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』星野慎一訳、旺文社文庫、一九六九
、二二ー二三頁。
15 桑原武雄他編『定本伊東静雄全集』人文書院、一九七一、一八頁。
16 『定本伊東静雄全集』三○頁。
17 『定本伊東静雄全集』四四ー四五頁。
18 『定本伊東静雄全集』六六頁。
19 『定本伊東静雄全集』六七頁。
20 『立原道造詩集』三三○頁。
21 『立原道造詩集』三一三頁。
22 『立原道造詩集』三一四頁。
23 『立原道造詩集』三一六頁。
24 作田啓一『恥の文化再考』筑摩書房、一九六七、一五ー一七頁。
25 『立原道造詩集』四○五ー一三頁。
26 平井正穂編『イギリス名詩選』岩波文庫、一九九○、一六○ー一六三頁。訳は、
筆者が行った。
27 「発想の転換をこそ」(『イギリス名詩選』、一五二ー一五七頁)の最終行を参照。
28 杉浦明平「解説」『立原道造詩集』、四一九頁。
29 吉本隆明「前世代の詩人たちーー壷井・岡本の評価について」『現代詩論体系二
』思潮社、一九六五、三三ー四五頁。
30  藤田榮一『アメリカの深層を読む』丸善ライブラリー、一九九二、一四四頁。