しかし、どうして、こうした呼びかけが喜びであり、また、神へじぶんの声が届くと
思えるのだろうか、そして、いつ神が答えるのだろうかと、ここで問うことは控える
べきだろう。一生をかけて、答えぬ神へ呼びかける人びとの時代から、救済確信の喪
失や現実への絶望などにより「神への不信」「神の沈黙」が始まる時代へ至るまで、
なお、一世紀半以上の歳月が必要である。今は、まだ、ピューリタンの時代であり、
引き延ばされた神への接近こそが、信仰や救済の確信につながると思われていた。
ここで注目すべきことは、「わたし」と「神」を結ぶイメージとして、「糸」およ
び「糸」関連の言葉が使われている点である。テイラーが織物製造工程に関してよく
知っていたのは、英国とアメリカで普通の家庭内の仕事だっただけでなく、彼の生地
レスターシャが織物産業地に近かったためだろう。「紡ぎ車」によってできる六行目
「紡ぎ糸」(yarn)が、七行目「撚り糸」(Twine)となり、「機織り機」を通って
九行目「織り布」(Web)になる。これを「 機」(織った布を洗って、密にする機械
)へ通した後、染め上げられ仕立て上げられたのが、一七行目「衣」(apparell)な
いしは一八行目「清い衣」(Holy robes)である。これをまとった「わたし」が、「
神」の御前に「衣」を示す。この工程は、一連のものであり、そのひとつを強調すべ
きではない。(19)
それから、わたしを、あなたの機織り機にして、この撚り糸を編んでください
あなたの聖霊に、神よ、糸巻きを回させて、
自らの手で織り布を織ってください 紡ぎ糸はすばらしいのです
あなたの御命令が、わたしの縮絨機となります 10
天上にふさわしい色で 鮮やかに染めあげて、
衣全体を、天国の美しい花ばなで飾ってください
それから、わたしの理解、意志、
心、判断、良心、記憶を
わたしの言葉と行いを、その衣でおおい、それらの輝きが 15
わたしの道を賛美で満たし、あなたを讚えるようにしてください
そうすれば、わたしの衣があなたの前にきらびやかに広がり、
わたしが清い衣におおわれて あなたの栄光を讃えるでしょう
この作品の趣旨は、神の霊が人を動かし、神の前に出るための準備の仕事が行われる
という点にあり、「糸」および「糸」関連の名詞は、「わたし」と「神」を結ぶ媒介
として使われているので、これらには所有代名詞が無い。言葉遣いにこだわって、六
、九、一一、一三行目を読めば、紡ぎ車を回し、機を織り、染めあげ、「わたし」に
服を着せよと、「わたし」が「あなた」すなわち「神」に命じている。一方、「わた
し」は、「神」の必要とする道具に変ずる。すると、なぜ、道具に冠する所有名詞の
使用方法が一貫していないのだろうか。この一連の工程を実際に行う者は、「神」な
のだろうか。また、結局、タイトル「主婦仕事」が暗示するのは、「神」が「主婦」
であり、「女」であるということだろうか。
こうした問いを手がかりに作品を読み直すと、糸紡ぎや機織りは、伝統的に女の仕
事であり、また、作品中で一連の工程に必要な道具類は、ほとんど「あなたの」もの
とされているが、しかし、「糸巻き棒」「縮絨機」および「衣」は、「わたしの」も
のである。「糸巻き棒」(distaff)は、手に持って糸を繰る道具であるから、これ
は、「わたし」の行う工程を意味するだろう。そして、この単語には、「女の仕事」
、転じて「女性」という意味がある。『聖書』でも「糸巻き棒」を持つ者は、妻であ
ったし、テイラーも、もちろん、機織りは女の仕事だと考えていた。(20)また、「縮
絨」は、織布の品質を決める重要な中間工程である。ここで、織った布を洗って密に
し、「染め」へ向けて布地として完成させる。最後の「衣」は、もちろん、一連の工
程の完成品であり、しかも、ピューリタンの「男」なら身につけるはずのない「天国
の美しい花ばなで飾られた衣」であった。すると、「あなた」ではなく、「わたし」
が女だと考えるほうが合理的にも見えて、結局、この作品は首尾一貫性しないことに
なる。しかし、急いで付け加えなければならないが、詩作品が詩作品である限りにお
いて、かならずしも首尾一貫する必要はない。矛盾や混乱があってもよい。これは、
素材やテーマや文体などあらゆる点において、そうである。問わねばならないのは、
むしろ、そうした矛盾や混乱が何を伝えるかということだ。
この作品の中心のメタファーは、「清い衣」だと多くの批評家が考えているが、(2
1)そうではなくて、糸紡ぎから始まって最後に衣服を創造する一連の織物工程である
。ピューリタンは、人間の自発的な意志や行動を否定し、神の予定調和に従うことを
目指していたので、「衣」創造の作業すべてを「神」に委ねて、「わたし」が一切の
道具と成り下がってよいはずであった。しかし、それでは、「人間」として「神」の
御前に現れる可能性が排除され、かつ、「神」を「女」としてしまう。このディレン
マが、メタファーの首尾一貫をテイラーに避けさせて、一人称所有代名詞「わたしの
」を恣意的に使用することによって、創造の工程へ「わたし」を部分的に参画させる
ことになる。この操作によって、テイラーの意図としては、神の力や栄光の賛美を目
指したのだろうが、しかし、言語表現が、逆説的に作者の意図を裏切ることになる。
なぜならば、ピューリタンの女でも着ないないほどきらびやかな花柄の衣服を身にま
とう「わたし」が、受け入れてほしいと「神」を讃えながら、その前に姿を見せる作
品の終わり方に、衣服倒錯症とホモセクシャルな傾向とを、二○世紀末の読者に読み
とらせてしまうためだ。(22)
牧師という地位を除けば、エドワード・テイラーは、ジェントルマンではなく、そ
こそこのヨーマンに属している。(23)しかも、彼は、牧師であったから、衣服に関す
る社会の戒めを率先して実行するだけでなく、教会員のきらびやかな服装を戒めてい
ただろう。しかし、作品の中で、じぶんが神に選ばれるゆえに、俗世の戒めを破り、
そうした服装をじぶんに許した。こうして、「主婦仕事」は、圧倒的に個人を統制・
支配する者(男性)へ同一化を果たそうとして、無意識に女性的になる一例を示して
いる。文学史的には、テイラーの作品は、一七世紀というかなり早い時期に、アメリ
カにおける抑圧された無意識裡の性問題を暗示したと言えよう。
4衣服倒錯症とホモセクシャルな傾向――ピューリタニズムの抑圧
「主婦仕事」の読解において、糸紡ぎや機織りを「主婦仕事」と定義しながら、夫
の姿や存在が暗示されていないので、夫のいない寂しい家=神不在の教会を象徴する
などと判断するのは、牽強付会であり、第一、この作品の作者が男である伝記的な事
実を無視している。しかしまた、男が女を装う虚構性、あるいは、「神」を女とみな
す荒唐無稽さを、植民地時代のアメリカ文学に発見しようとするのは、あまりにも不
合理である。むしろ、そこではメタファーに強いられた結果として、無意識に、男が
女を装う虚構性を潜在させ、男の中にある女性原理が抑圧された形で展開したと考え
るべきだろうし、この無意識とは、「神」との関係において解かれるべきだろう。
「主婦仕事」のタイトルがまさしく「主婦仕事」である限り、「主人ー下僕」でも
「父ー子」でもなく、「夫ー妻」の関係を「あなた(=神)ーわたし」の関係に投影
できるはずだ。この判断は、テイラーの他の作品に見られる同様の例によって、補強
される。たとえば、『備えのための瞑想』I:37(24)は、神とじぶんの関係を家族
関係で読み解くことを許している。その副題「あなたはキリストのものです」は、「
コリント人への手紙1」三章二二節から採られており、31から37まで、主として
この節をめぐって、全てがキリストのものであることを確認しようとしている。とり
わけ、36から、じぶんとキリストとの関係を問い始め、これにしたがって、家族関
係への言及と性的な表現が出現してくる。そして、37で、
わたしはあなたの子ども、息子、後継ぎ、つれあいでありながら
こうした関係が要求できる権利を 何も、もらえないのでしょうか?
と尋ねる。ここで「つれあい」と訳した単語は、"spouse"であり、これは、夫へも妻
へも使う言葉だが、O.E.D. によれば、宗教上の用例は、「神/キリストー教会/女
」に適用されている。したがって、ここで、じぶんを女/妻、キリストを男/夫と暗
示していると判断してよいだろう。次に続く連では、性的、身体的な関係を持ちなが
ら、つれないキリストの仕打ちをかこち、「抱きながら 口づけも たまにしか し
てくれないのですか?」と嘆く。最終2行では、
ですから堰を開いて、あるものをわたしの上に 射出してください
そうすれば わたしは心地よくなるでしょう
と呼びかけて、性的な恍惚という解釈を許すような命令形で、この作品を閉じる。
もともと、『聖書』は、イスラエルを〈花嫁〉と比喩したり、教会を〈子羊の花嫁
〉と述べて、男と女の結婚を比喩として借用しながら、神と信者たちとの一体感を表
現してきた。(25)この意味で、女性は、簡単なレトリックや結婚の比喩で、神との一
体感を表現できる。たとえば、アン・ブラッドストリートは、神の下で、罪人として
の分身を創り出し、これを叱る過程で、おのれを救済した。エミリー・ディキンソン
は、作品番号461で、神との合一をうたうが、そこには、何ら、後ろめたさも暗さ
も見られない。(26)ところが、男は、神との結婚の比喩に忠実であろうとすれば、性
の転換を図らねばならない。ここに、ピューリタンの男の苦悩が潜在する。
エドワード・テイラーは、男であり、かつ、そのことに誇りを持っていながら、(2
7)二つに引き裂かれている。彼は、社会生活・家族生活の中で、教会制度や家父長制
の上に立つ男、つまり、指導者、牧師としての自我と、神の前で下僕として「女」の
ように愛される分身とを必要とした。テイラーが神に向かう手段は、じぶんが罪人だ
という認識であるが、これには裏付けがない。救われるための過程として、「わたし
は罪人」という神話を必要としているにすぎない。(28)彼の本質的なディレンマは、
じぶんが神に依存し、非常に傷つきやすく、また、受動的である、あるいは、そうあ
りたいという罪人としての願いを満たしながら、なおかつ、いかにして、じぶんが神
に選ばれた力のある支配的な男であると自ら納得できるかということであった。
このディレンマを解く幾つかの方法が、現在、発見されている。たとえば、女性の
衣装をまとって、男根付きの「女」になることである。(29)これは、牧師の服の下に
、女性の下着を着て、日曜日ごとに説教を行うようなタイプであるのかもしれない。
あるいは、最終的に「父」のようになるよりも、むしろ、「父」に愛されること、じ
ぶんの男性性を放棄して、「女」のように愛されることを選ぶかもしれない。(30)ク
レイグ・オーウェンスは、社会に対して「女はかたるため、自らを提示するために、
男性の立場をとる。女性性が仮装、偽の衣装、擬態や誘惑と結び付けられることが多
いのは、このためである」と述べるが、(31)ピューリタンの男たちは、社会に対する
女と全く逆の方法を、神に対して取らざるを得ない。テイラーもまた、自らを女性に
装って、神との結婚を目論む。
神との結婚および家族関係という、『聖書』にもとづく比喩から「父」の概念を導
入すれば、ピューリタンとは、「父」たろうとする欲望に溢れながら、「父」たる権
利を永遠に奪われている者たちのことである。ピューリタンは、天上に対しては、「
父」の存在確認を明証的に求め、かつ、「父」からの認知を求める。同胞に対しては
、神の下に平等で民主的であろうとするが、「インディアン」や黒人を含めた「異民
族」、および「女」に対しては、支配的な「父」たろうとする。歴史的には、ピュー
リタニズムも、男尊女卑や異民族蔑視の封建思想を維持してきた。これを理解するに
は、男たちだけが署名した「メイフラワー号」の契約や、一九世紀終わりまで続く「
インディアン」討伐の事実を思いだすだけでよいだろう。
アメリカ植民地時代、どのような抑圧のドラマが無意識裡にあろうと、男は、女に
仕えさせ、そうして、男に仕える女のように、男は、神に対して仕えたのである。
注
1 たとえば、Russel B. Nye and Norman S. Grabo, ed., American Thought and Wr
iting: The Colonial Period (Boston: Houghton Mifflin, 1965) 292; Robert E.
Spiller, et. al., Literary History of the United States, Third Ed. Revised
(New York: Macmillan, 1963) 65; Albert Gelpi, The Tenth Muse: The Psyche of
the American Poet (Cambridge: Cambridge UP, 1991) 15.
2 Thomas H. Johnson, "Edward Taylor: a Puritan Sacred Poet'" X, 2, June, 1
937, The New England Quarterly: 290-322.
3 Jeffrey A. Hammond, Edward Taylor: Fifty Years of Scholarship and Critici
sm (Columbia, SC: Camden House, 1993) 3.
4 Thomas H. Johnson, "Edward Taylor: a Puritan Sacred Poet'": 290, Perry Mi
ller, ed., The American Puritans: Their Prose and Poetry (Garden City, NY:
Doubleday, 1956) 302. 遺言の根拠としては、John L.Sibley, Biographical Ske
tches of Graduates of Harvard University (Cambridge, Mass., 1881) II, 410
や、"Diary of Edward Taylor," Proceedings of the Massachusetts Historical So
ciety , XVIII, 1880-1881 (Boston: Massachusetts Historical Society, 1881)
5, William B. Sprague, Annals of the American Pulpit (New York, 1859) I,
180など。しかし、フランシス・マーフィは、当時の公文書を調査した上で、彼は、
テイラー自身の遺言が存在しないことを明らかにしている。(Francis Murphy, "Edw
ard Taylor's Attitude Toward Publication: A Question Concerning Authority,"
XXXIV. 3, November, 1962, AL: 393-94)
5 Edward Taylor, The Poetical Works of Edward Taylor, ed. Thomas H. Johnson
(1939) (Princeton: Princeton UP, 1966).
6 Louis L. Martz, "Foreword," The Poems of Edward Taylor ed. Donald E. Sta
nford (Hew Haven: Yale UP, 1960) xiii. スタンフォードは、イェール大学所蔵の
テイラー草稿を精査して、ジョンソンと違い、詩作品全体のタイトルを"Sacramental
Meditation"ではなく、 "Preparatory Meditations"としている。
7 Sidney E. Lind, "Edward Taylor: A Revaluation," XXI, 4, December, 1948, T
he New England Quarterly: 518-30.
8 Louis L. Martz, "Forward." William J. Scheick, "The Poetry of Colonial
America,Columbia Literary History of the United States ed. Emory Elliott,
et. al. (New York: Columbia UP, 1988) Thomas H. Johnson, "Edward Taylor: a
Puritan 'Sacred Poet'": 290. Norman Grabo, "Edward Taylor's Spiritual
Huswifery," 74, 1964, PMLA : 554-60. Stephen Alfred Woolsey, "My handy
works, are Words, and Wordiness': Edward Taylor and the life of language,"
DAI, vol. 49, no. 7, Jan., 1989; Bonnie Carman Harvey, "A movement toward
the integrated self: Antinomianism reflected in the poetry of Taylor,
Emerson, Dickinson, and Frost," DAI, vol. 51, no. 6, 1990; Yanwing Leung,
"To dash out reasons brains': A poststructurist inquiry into Edward
Taylor's 'Preparatory Meditations'," DAI, vol. 51, no. 10, 1991; Duckhee
Shin, "Christian mysticism in Edward Taylor's poems on the Canticles," DAI,
vol. 52, no. 9, Mar., 1992; David George Miller, "The Word made Flash made
Word: The failure and redemption of metaphor in Edward Taylor's
'Christographia'," DAI, vol. 52, no. 9, Mar., 1992; Karen Joyce
Gordon-Grube, "The alchemical 'golden tree' and associated imagery in the
poems of the Hermetic-Paracelsist philosophy," DAI, vol. 52, no.10, Apr.,
1992; Jeffrey A. Hammond, Edward Taylor.
9 この章は、主として以下の著作、および、神学者塚田理の助言に拠った。Norman
S. Grabo, "The Poet to the Pope: Edward Taylor to Solomon Stoddard," XXXII,
2, May, 1960, AL: 197-201. David Riesman with Nathan Glazer and Reuel
Denney, The Lonely Crowd: A study of the changing American character (New
haven: Yale UP, 1961). Norman S. Grabo, "The Appeale Tried': Another
Edward Taylor Manuscript," XXXIV, 3, November, 1962, AL: 395-97. Edmund S.
Morgan, Visible Saints: The History of a Puritan Idea (New York: New York
UP, 1963). Norman Pettit, The Heart Prepared: Grace and Conversion in
Puritan Spiritual Life (New Haven: Yale UP, 1966). Scavan Bercovitch, The
American Jeremiad (Madison: Wisconsin, 1978). Patricia Caldwell, The
Puritan Conversion Narrative (Cambridge: Cambridge UP, 1983). Michael
Joseph Schuldiner, Gifts and Works: The Post-conversion Paradigm and
Spiritual Controversy in Seventeenth-Century Massachusetts (Macon, Georgia:
Mercer UP, 1991).
10 モーガンによれば、これまで、アメリカ植民の初めから回心の語りが行われてい
たと考えられていたが、実は、たぶん一六三四年にマサチューセッツで始まり、次第
にプリマス、コネチカット、ニューヘイヴンへと広がり、イングランドへ逆輸出され
たのだろうと説明する。Edmund S. Morgan, Visible Saints 64, 96-98.
11 半契約(half-way covenant)という言葉そのものは、一八世紀ジョナサン・エ
ドワーズの信奉者たちが信仰的に新生を経験していない親たちの子どもへ、洗礼を与
えるべきかどうかをめぐって議論した一七六○年代頃に作り出されたと推測されてい
る。Cf. Robert G. Pope, The Half-Way Covenant.
12 Donald E. Stanford, "Introduction," The Poems of Edward Taylor xix.
13 Thomas H. Johnson, "His Poetry" The Poetical Works of Edward Taylor 26;
Sidney E. Lind 524; Donald E. Stanford, "Edward Taylor and the Lord's
Supper," XXVII, 2, May, 1955, AL: 172-78.
14 テイラーの性格を浮き立たせるように思えるのが、ウェストフィールド行きの誘
いに対する彼の優柔不断な対応と現状追認型の性格である。はっきりと返事をしてい
ないのに、トマス・デゥーイが彼の様子から誘いを受けるものと判断し、テイラーの
ほうはその判断をどうして納めたものか分からずにいるうちに、結局、ウェストフィ
ールドへデゥーイとともに出発することになる。("Diary of Edward Taylor,": 16-
17)しかも、ウェストフィールド行きに気が進まなかったはずなのに、ひとたびそこ
に落ちつくと、決してそこから出ようとはせずに、ついには、その地の墓地に埋めら
れてしまう。この性格は、ストダード主義へ反対し続けたことや、教会をこれまでと
は違う場所に立て直したときに新しい建物では説教をしたくないと言い張った事実 (
Samuel Sewall, "Letter-Book of Samuel Sewall," Collections of the
Massachusetts Historical Society, 6th Ser., 2 vols., [Boston: Massachusetts
Historical Society, 1886-88] 145) が指し示す頑固さとは矛盾しない。頑固な現状
維持は、実は、時代や国境を越えて、新しい事態にうろたえがちな大多数の人間の選
ぶ道である。
15 Cf. Roy Harvey Pearce, The Continuity of American Poetry (Princeton: Pri
nceton UP, 1961) 57.
16 Donald E. Stanford, "Introduction," xxii.
17 Norman Grabo, "Edward Taylor's Spiritual Huswifery": 560. ただし、スィ
ーウォールの子どもが亡くなったときに書いたお悔やみの手紙の中に同封されて贈ら
れている「結婚、そして、子供の死」も同じ形式である。Samuel Sewall, The Diary
of Samuel Sewall: 1674-1729, ed. M. Halsey Thomas, 2 vols. (New York:
Farrar, Straus and Giroux, 1973) 250; Constance J.Gefvert, Taylor: An
Annotated Bibliography 1668-1970 (Kent UP, 1971) 10.
18 Edward Taylor, The Poems of Edward Taylor ed. Donald E. Stanford (Hew Ha
ven: Yale UP, 1960) 467. 以下、引用は全てこの版による。翻訳は、全て筆者が行
った。
19 「縮絨」を重視した論文に、John Higby, "Taylor's Huswifery," XXX, 7, Item
60, March 1972, The Explicatorがある。しかし、「染め」と「織り」への言及を欠
いた「同じ題で」("Another upon the Same "The Poems of Edward Taylor" 468)
と比較すれば、「主婦仕事」では、織物製造を一連の工程で捉えようとしていること
が明らかであろう。
20 Proverbs xxxi. 19: "She layeth her hands to the spindle, and her hands h
olds the distaff." Cf. Thomas M. Davis, A Reading of Edward Taylor
(Newark: U of Delaware P, 1992) 39-40; Norman Grabo, "Edward Taylor's
Spiritual Huswifery": 556.
21 たとえば、Norman Grabo, "Edward Taylor's Spiritual Huswifery": 554-60; K
arl Keller, The Example of Edward Taylor (Amherst: U of Massachusetts P,
1975) 183; Michael Joseph Schuldiner, Gifts and Works 111など。
22 植民地時代のピューリタン社会では、普通によく描かれる葬式用の服装よりは、
明るい茶や灰の生地で仕立てた服装をしていたが、装飾や、きらびやかな服装、派手
な色彩は厳禁されていたという。John C. Miller, The First Frontier: Life in Co
lonial America (Boston, UP of America, 1966) 108-21.
23 Donald E. Stanford, "The Parentage of Edward Taylor," XXXIII, 2, May, 19
61, AL: 215-221.
24 The Poems of Edward Taylor 60-61.
25 「エレミア書」2. 2, 32;「マタイ伝」22. 1;「黙示録」19.7, 21. 9。
26 Anne Bradstreet, The Works of Anne Bradstreet (Cambridge: Harvard UP, 1
967) 292-93. Emily Dickinson, The Complete Poems of Emily Dickinson, ed.
Thomas H. Johnson (Boston: Little Brown, 1960) 222.
27 後に第一の妻となるエリザベスへの求婚の手紙の中で、テイラーは、彼にとって
、女や妻が教え諭す対象であることを示している。William B. Goodman, "Edward Ta
ylor Writes His Love," XXVII, 4, 1954, New England Quarterly: 510-15.
28 たとえば、『備えのための瞑想』I:38に、「わたしの罪は真っ赤です。わたしは
、神に捕まっております」とある。The Poems of Edward Taylor 62.
29 Louise J. Kaplan, Female Perversions: The Temptations of Emma Bovary (Ne
w York: Doubleday, 1991) 242-43.
30 Kenneth Lewes, The Psychoanalytic Theory of Male Homosexuality (New York
: Simon and Shuster, 1988) 22-47.
31 クレイグ・オーウェンス「他者の言説」、ハル・フォスター編『反美学ーポスト
モダンの諸相』室井尚・吉岡洋訳(東京:勁草書房、1987)108。
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