文学教育は、あらゆる学問・教育の基本です。読み書き能力を深め、自他を知り、自他と通じ合う点で、理科系も含めて全ての学生がまず学ぶべき基礎科目のひとつです。特に、批評的精神が希薄な日本社会では、表面的なアメリカナイズと軽佻浮薄さが深刻となり、同時に、テクノロジーが人間関係を希薄にするなかで、文学を同一空間で学ぶ重要性は、ますます増大するばかりです。とりわけ、外国語文学は、文化相対主義の学びと批評精神を育むうえで非常に重要であり、なかでも、英文学は、善し悪しを別にして、現在世界をリードするアメリカ・イギリスの知性と感情の個人的な生の部分に直に触れる点でも、その教育効果は計り知れない。
(1)英文学を学び始めた学生にはアンケートを行い、感銘を受けた日本文学、外国文学、および、文学以外の書物をあげてもらい、その結果を集計・発表して、読書への刺激を与える。同学年・同クラスが自分の知らない本を読んでいると知ることは、新鮮な驚きであるらしい。また、これによって、文学や本の話をしても平気なのだのだという、基本的に文学部にとって必須だが、今となってはなかなか醸成しずらい雰囲気をもたらす一助となる。ただし、学生アンケートで挙がる本はあまりにも最近作だったり、内容が薄かったりすることが多いので、後に、英米文学を含めた古典の読書リストを示す。古典の要点は、時代・民族・言葉を超えて、魂に響くものであること、人類の知恵であること、他者がじぶんに成り代わって生きてくれた貴重なモデルであり、学びの宝庫であることでしょう。課題として、リストのなかのどれか1冊を読んでレポートを書くようにと促す。
(2)英文学の授業は、自己表現能力・コミュニケーション能力の啓発・育成を基本的目標とする。英米文学科の学生たちは、爆発的な潜在能力を持っている。これに着目せず、教員が教室で君臨するほど見苦しい。質問の出ないクラスほど悲惨である。個人的な授業の工夫に過ぎないが、私の授業では毎回、グループごとの口頭発表・討論形式をシステマティックに導入し、クラスによっては、ディベートや作品論発表を義務づけ、グループごとの優劣を競うなかで、客観的検証能力、論理的説得・議論能力、立証能力、尋問能力などを培ってゆく。教材は、英米文学から取るが、教室内での使用言語は日本語である。英語の運用能力を培うには、別のクラスが用意されている。信頼すれば学生は必ず応えます。
(3)現代の日本の英文学教育で問題・課題だと思われる点は、まず第1に、説明責任を果していないこと。実利に辛い現代日本社会において、大学教育に英文学教育が必須であることをみずから説得的に語ることにより、学内や社会を納得させねばならない。
第2に、研究中心の教員が圧倒的に多く、教育に工夫がないこと。大学は、教育が基本です。ただし、個人として教育方法を工夫しても、それは地の塩どころか、海の塩にもなれない。大学や学部・学科全体として、FDのための方策をとる必要がある。たとえば、お互いの授業を参観して批評しあい、学びあう制度を導入するべきでしょう。
第3に、文学を教材とすることに自信を持つこと。時代風潮・概念、あるいは、文化的説明で、人を理解することは出来ません。個々人の生きざまを知る文学でしか学べないことがたくさんあります。この変動の激しい日本社会を生き抜くうえで、文学は、ささやかだけどとても大切なことを教えてくれるでしょう。
第4に、教員同士の相互学習が必要だと思う。評価基準もまちまちである。
学びあう制度を導入するべきでしょう。放置していても、論文に対しては、そうしているのだから。
第5には、文学を教材とするにしても、もっと授業のやり方に工夫を凝らすこと。たとえば、訳読は、それ自体が悪ではない。訳する行為、訳語の選択に、その人の人生全てが現れるといても過言ではない。訳読にこだわるのなら、その良さを生かし、その能率の悪さを改善するような方法を考えるべきだろう。あるいは、書評を英語で書かせるという方法もある。
(1)英文学を学び始めた学生にはアンケートを行い、感銘を受けた日本文学、外国文学、および、文学以外の書物をあげてもらい、その結果を集計・発表して、読書への刺激を与える。同学年・同クラスが自分の知らない本を読んでいると知ることは、新鮮な驚きであるらしい。また、これによって、文学や本の話をしても平気なのだのだという、基本的に文学部にとって必須だが、今となってはなかなか醸成しずらい雰囲気をもたらす一助となる。ただし、学生アンケートで挙がる本はあまりにも最近作だったり、内容が薄かったりすることが多いので、後に、英米文学を含めた古典の読書リストを示す。古典の要点は、時代・民族・言葉を超えて、魂に響くものであること、人類の知恵であること、他者がじぶんに成り代わって生きてくれた貴重なモデルであり、学びの宝庫であることでしょう。課題として、リストのなかのどれか1冊を読んでレポートを書くようにと促す。
(2)英文学の授業は、自己表現能力・コミュニケーション能力の啓発・育成を基本的目標とする。英米文学科の学生たちは、爆発的な潜在能力を持っている。これに着目せず、教員が教室で君臨するほど見苦しい。質問の出ないクラスほど悲惨である。個人的な授業の工夫に過ぎないが、私の授業では毎回、グループごとの口頭発表・討論形式をシステマティックに導入し、クラスによっては、ディベートや作品論発表を義務づけ、グループごとの優劣を競うなかで、客観的検証能力、論理的説得・議論能力、立証能力、尋問能力などを培ってゆく。教材は、英米文学から取るが、教室内での使用言語は日本語である。英語の運用能力を培うには、別のクラスが用意されている。信頼すれば学生は必ず応えます。
(3)現代の日本の英文学教育で問題・課題だと思われる点は、まず第1に、説明責任を果していないこと。実利に辛い現代日本社会において、大学教育に英文学教育が必須であることをみずから説得的に語ることにより、学内や社会を納得させねばならない。
第2に、研究中心の教員が圧倒的に多く、教育に工夫がないこと。大学は、教育が基本です。ただし、個人として教育方法を工夫しても、それは地の塩どころか、海の塩にもなれない。大学や学部・学科全体として、FDのための方策をとる必要がある。たとえば、お互いの授業を参観して批評しあい、学びあう制度を導入するべきでしょう。
第3に、文学を教材とすることに自信を持つこと。時代風潮・概念、あるいは、文化的説明で、人を理解することは出来ません。個々人の生きざまを知る文学でしか学べないことがたくさんあります。この変動の激しい日本社会を生き抜くうえで、文学は、ささやかだけどとても大切なことを教えてくれるでしょう。
第4に、教員同士の相互学習が必要だと思う。評価基準もまちまちである。
学びあう制度を導入するべきでしょう。放置していても、論文に対しては、そうしているのだから。
第5には、文学を教材とするにしても、もっと授業のやり方に工夫を凝らすこと。たとえば、訳読は、それ自体が悪ではない。訳する行為、訳語の選択に、その人の人生全てが現れるといても過言ではない。訳読にこだわるのなら、その良さを生かし、その能率の悪さを改善するような方法を考えるべきだろう。あるいは、書評を英語で書かせるという方法もある。
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