2013年4月4日木曜日

英語なんか、恐くない -文化相対主義への学び


わたしは、なぜ、教師になったのだろうか。
とりわけ、なぜ、アメリカ文学の教師なのだろう。そして、一体、何を教えることができるのだろうか。
どこの大学に限らず、英米文学科の学生たちの多くは、言葉が上手に使えない。発表は、手際が悪いし、質疑応答も歯がゆい。レポートの文章も上手とは言えない。あるいは、小綺麗にまとめるが、これぞという力が、発表からもレポートからも伝わらない場合が多い。だいたい、既に6年間習って、どうして、英語を話せないのか。
実は、これは、当たり前なのだ。
ただし、それは、話せる・聞ける英語教育が施されていないとか、もともと、発声に使用する器官や筋肉が違うし、息の出し方も違うという事実を英語教育が無視してきたからと言うのではない。むしろ、第2次世界大戦敗戦後の日本社会に育ち、かつ、英米文学科に進学した者たちは、いわば、現在の日本文化が蒙っている英語支配、アメリカ支配の現状を、象徴的に体現しているためだと言ったほうが、正しいだろう。わたしの場合も、その1事例にすぎまい。

わたしの生まれ育った北海道札幌は、当時、自衛隊と宣教師に溢れた町だった。父は、そこで、お菓子屋だったが、英字新聞の袋に煎餅を入れて売るのが評判だった。旧来型の「父」である彼は、家で君臨し、わたしとその兄弟は、食卓で言葉を許されず、彼の声を聞いていた。ハーシーのチョコレートを食べてよいのは、クリスマスの時だけだった。その父が、毎晩、辞書を片手に、NHKラジオの英会話を聞く。そして、「英語ができなければ、将来、つかいものにならない」と毎度、宣言していた。誇張すれば、わたしは、いわば、2重の支配下にあったのだと言える。
わたしが、だから、英語と出会い、アメリカ文学を志したことを、歴史の必然と見なせもしようし、また、フロイド的な解釈もできよう。「父」とは、文化に他ならず、文化とは、結局、言葉に他ならない。したがって、日本と世界の現状が、アメリカの優越を許している限り、英語の優越は、克服しにくい。
すると、個別の差を無視して、英米文学科生の共通項を探せば、英語の呪縛、英語による抑圧だと言えよう。そして、それが日本文化の反映ならば、動機付け弱い学生が多いのも頷ける。英米文学科には、英語の嫌いな学生は来ないし、逆に、英語に堪能な学生も意外と少ない。(ただし、当然だが、そうした学生が、日本文化の支配と、そのうえに君臨する英語支配から、免れているとは、限らない。)英米文学科の学生は、大抵、所謂「いい子」である。もともと、英語は、言語だから、たとえ、読み・書きが中心であろうと、毎日学習しなければ、力は付かないし、伸びないから、毎日、机に向かう真面目な学生が多いためだ。
これを別の観点から言い換えると、そういった学生をこそ、日本社会が求めていると言えよう。つまり、英語の科目で良い点数を取るのは、実は、社会の要請に応えることなのである。そして、社会へ人材を送り出すべく運命づけられている大学は、受験科目に、理科系、文科系を問わず、英語を必修としている。

すると、もしも、わたしが学生と接して、なにかできることがあるとすれば、それは、あたかも「父」のようにクラスで君臨することではなく、アメリカ文学教育や英語教育を通して、自国文化の桎梏と英語支配に気付くこと、そして、最終的には、あらゆる文化を相対化する視点を獲得し、自己を自由のほうへ開放する方法を、共に、学ぶことだろう。
どこまで成果が出るかは、たぶん、20年先にならないと測れない、いや、とりわけ、外国語による文学教育の成果は、永久に測れないのかもしれないが、今のところ、わたしの基本方針は、1.学生の自主的なクラス運営、2.言語訓練、3.思考訓練、4.シラバス(年間計画表)と授業評価の4つになるだろう。
第4項のうち、シラバスには、1年間の予定が詳細に記され、原則として、クラスは、その予定通りに行われる。授業評価表は、最後のクラスで、学生たちによって記入される。今のところ、これは、じぶんの授業改善と工夫に役立っているだけだが、もっと適切な問いや、もっと上手な利用方法があるのかもしれない。1例をその結果と共に示したので、ご批評くださればありがたい。
前の3項を満たすために、ディベートや口頭発表がある。この際、ゲーム感覚を導入しティーム同士が競う形をとる。進行役は、もちろん、学生たちだ。狙いは、英語で書かれた文学作品を、自分たちと対等だが異質のものとして尊重しつつ、批評的に読み語る能力を培い、育てることにある。
一般教育の英語の授業でも、日本語によるディベートを行う。たとえば、米の自由化問題に関する英語ニュースや解説記事を学生が探して、1週前に配り、クラスはこれを予習し、発表の時には、学生の司会で、英語資料の読解と、「米を即時全面自由化せよ」という論題で、肯定・否定に分かれて、ディベートが行われる。事の善し悪しは別にして、あるクラスでは、英字新聞を小脇に抱えて通学するのが、ファッションになる。あるいは、意見と人格を切り離せない日本文化に規定されて、ディベートの勝敗が人格への好悪に直結し、結果、友人を失ったという訴えも、最終レポートに見られた。
課外授業としては、春と秋の2シーズン、大学院生やゼミの学生が中心になって、英語集中合宿を行う。既に5回を数えるが、この略称、ICAL(=Intensive Camp of American Literature)とは、"I call"すなわち、「わたしがよばわる、わたしが声を出す」ことが含意されている。

このキャンプでは、日本人同士で英語を話すので、初め、学生たちは、たじろぐが、すぐに慣れる。プログラムには、「英語ニュースの内容理解」、「ミュージック・トランスクリプション」(歌詞を書き取る)、「ラウド・スピーカー」(ネイティヴのしゃべる英語をイヤ・フォンで聞きながらその通りの声を出す)、「ラスト・スタンザ」(既成の英詩の最終節を、じぶんたちで作る)、「破壊と再構築」(段落の順序がばらされた短編小説をもとの順序に組み直す)などがある。学生同士が仕事を分担し合って、互いの英語力を鍛え合う。そして、毎晩、アメリカ文学の作品を素材に、「傑作か否か」でディベートを行う。最後の夜には、即興で英語劇だ。キャンプ初日には英語がなかなか出なかった学生も、流暢に役をこなす。それは、英語による支配から抜け出て、英語を使用する段階へ向かう第1歩だろう。
キャンプ生活は、これまで山梨の寺で行われているが、どの場面でも英語を話すのが原則なので、わたしたちのおしゃべりをもれ聞いた、寺に出入りする人が、和尚さんに、「あの人たちは、フィリピンから来たのか」と聞いたという。和尚さんが、「ノー」と答えると、「では、香港から来たのか」。
まだ、キャンプ途中で逃げ出した学生はいない。
もう1つの課外授業として、イサカのプログラムがある。わたしが1987年に1年間留学したニューヨーク州イサカで、III(=Ithaca Intercultural Institute: イサカ文化交流協会)をアメリカ人の友人と共に設立し、そこで、毎夏、「アメリカをめぐる冒険:文化と言語学習の旅」というプログラムを行う。イサカは、以前、『アメリカの小さな町』というルポルタージュ風の本で紹介されたが、アイヴィー・リーグに属するコーネル大学の町と言ってよく、国際的で、かつ、かなり安全で自由な町の1つだ。アメリカでは稀な、社会党の市長を生んだり、ヴェトナム難民を300人以上受け入れて、町ぐるみで、彼らにヴォランティア活動を行ったりする。
このプログラムへの参加者は、学生だけではない。立教の職員、他大学の学生、大学院生が参加する。これは、立教大学の単位に振り替えられるように、いくつかの部局や委員会に打診したが、断られたことを逆手に取って、参加資格を、立教大学の学部生以外にも開いたためだ。
具体的なカリキュラムは、別掲の表を参照していただきたいが、ESLのクラスが3つ用意されて、英語力を個別に、かつ、飛躍的に伸ばすし、イサカをフィールド・ワークの対象として、アメリカ文化の一端に触れるクラスもある。ホスト・ファミリーとの交流は、貴重な体験だろう。帰国後、アメリカだけに限らず、海外へ長期留学したり、留学が決まった学生も少なからずいる。
イサカへの旅は、実は、これに参加しようと考えた時から始まる。心の準備、親の説得、費用の捻出、英語の学習など、出発前に必ず、「文化」との摩擦がある。近年は、危険な国「アメリカ」のイメージが強く、親がどうしても賛成せずに、参加を諦めた学生もいる。

英語なんか怖くない。英語のできる者が必ずしも、知性において優れているとは限らない。アメリカでは、保育園の子どもでさえ、英語をしゃべる。大切なのは、英語がぺらぺらになることではなくて、外国語や外国文化との接触をきっかけにして、思考力や言語能力を訓練することだろうし、その結果、自分の内なる言語文化を相対化することだろう。外国語を学ぶことは、結局、あらゆる文化支配から自由になることなのだ。

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