2013年4月4日木曜日

アメリカン・モダニズムと女性像: スティーヴンズ、ウィリアムズ、パウンド、エリオット


聖徳大学総合研究所 第50回研究会
(1997年9月)

きょうは、お招き戴き、どうも有り難うございます。
 聖徳大学総合研究所の『論叢』を拝見していまして、この研究所が目指している、専門を越えた学問の総合化という目標に共感します。特に今日は、この研究所がそのモットーとして明言はしていませんが、研究所として根底に維持しているはずの大前提、つまり、学問は直感的な挑戦であり、創造であり、しかも、地べたを這うような辛い努力であるという大前提に、いわば、甘えさせてもらって、これまでぼくが考えてきた「モダニズム詩における女性像」に関して、その途中経過報告を聞いていただければ幸いです。
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1アメリカン・モダニスムの起源
1)アメリカの国際的な性格
アメリカは国家として、19世紀のほとんどを、熱烈なナショナリズムとセクショナリズムで、国土の膨張と国内産業の整備、前近代的な奴隷制度の克服等に費やした。1823年には、有名なモンロー宣言を発している。もちろん、それ以前同様に、19世紀を通じて、世界中の民族や国家から移民を受け入れていたが、アメリカが国際的な関係に入っていくのは、遅れて帝国主義戦争に参加した時からであり、また、指導的な地位を手に入れ始めるのは、第1次世界大戦への参加、および、その後の戦後処理の会議に参加してからである。
第28代大統領ウィルソンがパリ・ヴェルサイユ会議で提案した内容は、一見すると矛盾している。なぜなら、一方で民族の独自性を認めながら、他方ではいわば人類の統一もうたっているためだ。つまり、民族自決権の尊重をうたいながら、国際連盟(the League of Nations)を提唱する。しかし、この矛盾は、アメリカ合衆国の理念と仕組みに照らして考えれば、すぐに、了解できよう。アメリカの理念とは、すべてのコインに打ち刻まれている「e pluribus unum」である。これは、ラテン語であるが、「多から一へ」とか「多様性のなかの統一」などと訳されている。アメリカ合衆国は、独立以前から多様な民族を移民として受け入れながらも、統一された政治体としてのアメリカを形成しようとした。また、合衆国の仕組みとは、各州が個別の法律体系を持ちながら合衆国連邦憲法を共有し、また、連邦政府に対して、外交権、防衛権と貨幣発行権を委ねることである。したがって、各民族が自治権を行使しながら、全体としては、ひとつの理念を共有する国際連盟とは、アメリカ合衆国の世界版にすぎなかった。
ただし、アメリカの国会は、パリ条約を批准せず、とりわけ、国際連盟に反対を続け、ウィルソン大統領は、国際連盟に関する国内キャンペーンの最中に倒れて身体が麻痺し、直後の大統領選挙で選ばれたオハイオ州出身の第29代大統領ハーディングは、ドイツと単独講和を結び、国際連盟には加入しないという選択を行った。ちなみに、 "U.S.A." =United States of Americaが単数扱いになったのは、南北戦争以後のことであり、それ以前は、複数扱いだったという。これは、南北戦争によって初めて、国家としてのアメリカが成立したことを意味するのだろう。

2)フランス象徴主義:モダニズム以前(1)
以下、トパンによりながら説明すると、アメリカが帝国主義戦争に参加し始める以前から、詩の歴史における自意識は、新しい段階に入っていた。代表的な詩人としては、フランスのボードレール、マラルメ、ヴァレリーなどがあげられよう。ただし、フランス象徴主義の起源のひとつは、アメリカの詩人E・A・ポーにあるというのが定説になっているが、こうした詩人を生む点が、アメリカの不思議なところである。
ボードレールは、堕落した男を演じる詩人であった。彼は、悪徳の町パリの売春宿で詩を書いたと言われる。ボードレール以前の主流であったロマン主義の課題は、自然や芸術、あるいは大文字の「美」から、あるひとつの美を、言語表現の中にどうやって写し取るかにあった。しかし、象徴主義ないしボードレールの言語表現は、醜いものから美を引き出して、その時代の表面的な複雑さを解決し、新しい、調和した詩的言語に写し取ることにあった。それは、別の観点から言うと、詩作品そのものの中に詩的想像という神秘的な出来事を露にしたいという美学的な衝動でもあった。また、既に、自由韻文という実験が試みられていたが、これが後のイマジズムの原則となった。

3)イマジズム:モダニズム以前(2)
1914年3月に、『イマジストたち』(Des Imagistes)と題する1巻本の詩集が出版された。若い詩人たちの作品を集めたものだが、この年を含めて、1917年まで4回刊行される。とりわけ、15年版は、後で紹介するが、彼らの宣言が掲載されていて非常に重要である。時を経て、1930年には、第5巻目が刊行された。イマジストとしては、少なくとも7人の詩人を数えるが、そのうち4人がアメリカ人(Ezra Pound, Hilda Doolittle, Gould Fletcher, Amy Lowell)、3人がイギリス人(Richard Aldington, F.S.Flint, D.H.Lawrence)であった。
このイマジズムの運動は、逆説に溢れている。まず、刊行された詩集の中の作品が必ずしも、彼らのイマジスト宣言を体現するとは限らない。また、D・H・ローレンスの作品は、イマジストとジョージアンと両方の詩集に掲載されている。さらには、エズラ・パウンドは、イマジズムを創立した詩人であるが、1年目に、イマジズムを批判しそこを去っている。
もっとも矛盾をはらんでいる点は、「イメジ」をめぐる定義が無数にあり、かつ、矛盾し合うものもあることだろう。イマジストたちは、「イメジ」を求めて、フランス象徴詩、中国の漢詩、日本の俳句などに学び、そのいくつかを翻案の形で作品としているが、すべてがある統一された理論のもとに作品化されたわけではない。さらに不幸な逆説は、いわゆるイマジストたちの作品が文学の傑作としては評価しがたいことである。
歴史的に言えば、T・E・ヒューム(T.E.Hulme: 1883-1917)がいわば、理論的な先駆者である。彼は、ジョージアン風の詩作へ反発して、新しい感受性を詩の中に求め、当時の立体派などを高く評価した。ただし、本人は、詩人と言うよりも、哲学者として評価されたがっていた。貨物船で北アメリカへ旅して、その広大な風景に心打たれるというエピソードが残っている。「秋」("Autumn")や「都市の夕暮れ」("A City Sunset")をじぶんの理論的な実践作品として例示しているが、彼のころはまだ、イマジズムの名前は使われていない。
ヒュームは、これまでの近代西欧思想に、人間の無限の可能性を信じる「ロマン主義」と「ヒューマニズム」をみて、これを批判し、むしろ、人間の不完全性、限定性に目覚め、「人間的な価値の領域」と「倫理的・宗教的な価値の領域」との絶対的な区別を知ることが時代の急務であると主張した。(『世界大百科事典』)
イマジズムにとっての重大な契機は、1909年4月、当時24歳でロンドンに到着したばかりのエズラ・パウンドが、ヒュームと出会ったことである。このエズラ・パウンドは、既に、ヒュームと同じようなことを考えていた。1908年10月21日付けのウィリアム・カーロス・ウィリアムズに宛てた手紙の中で、次の4点を主張している。(Witemeyer 11)

(1)わたしが見るがままに、事物を描くこと。
(2)美しいこと。
(3)教訓ではないこと。
(4)以上のことをうまくやるように、そして、手短にやるようにと繰り返し、他の人に勧めるべきだ。独自性が大切なことは、言うに及ばない。

T・E・ヒュームは、第1次世界大戦に参戦し1917年に戦死するので、この後、パウンドが指導的な役割を担い、イギリスの『エゴイスト』(The Egoist)やアメリカの『ポエトリ』(Poetry)という2つの詩誌に作品を発表し、イマジスト・グループ、および、その機関誌を主宰してゆくことになる。ただし、先程述べたように、パウンドは、1年後にはこのグループを去り、彼の後を襲ったのがエイミー・ローウェル である。このために、しばしば揶揄も込めて、彼らは、「イマジスト」ではなくて「エイミジスト」と呼ばれる。
イマジストの原則は「イマジストによる幾つかのしてはいけないこと」("A Few Don'ts by An Imagiste")と題して、エズラ・パウンドによって示された。これが、先程も述べた15年版に掲載されている。(Jones 130-36)そこに示された原則を以下に羅列すると、
(1)新しい展望、新しい開示法:「イメジ」を言語化すること。万巻の書を書くよりも、一生を賭けて一つのイメジを示す方がよい。
(2)新しい聴覚、新しい言い方:自由韻律であること。
(3)詩人と対象との新しい関係:見られる事物そのものを信頼し、その表現力を引き出すこと。
(4)日常言語を使用しながら厳密に言うこと。
(5)テーマを選ぶに際して全く自由であること。

これらの原則をフランス象徴主義と比較してみれば、類似する点としては、叙事詩が失われた時代、宗教的な信仰の失われた時代にあって、ともに伝統的なテーマを喪失していること、それでもなお、詩的言語の再創造をめざしたことである。異なる点としては、象徴主義が純粋詩を目指したのに対して、イマジズムは、具象の詩を目指したことであろう。これは、たぶん、シンボリズムが音楽に近づこうとし、イマジズムは絵画にその発想をえている点から来る違いであろう。また、シンボリズムは、目に見えないものの喚起力を信頼したが、イマジズムは、目に見えるものの具象力を信頼する。こうした違いの根底には、大陸的・フランス的なものとアングロ・サクソン的なものとの差があるのかもしれない。
T・S・エリオットは、1953年のあるエッセイのなかで、イマジズムを現代詩の出発点だと評価している。(Eliot 58-59)もともと、エズラ・パウンドとウィリアム・カーロス・ウィリアムズは、イマジストだったし、ウォレス・スティーヴンズもイマジズムからなにがしかのことを学んでいる。そして、これは、エリオット自身にも当てはまる。1917年と記録されている文学書評は、「イマジストの作品は、わたしたちを希望で満たす。最良の詩が書かれうる形式を、イマジズムが約束しているように思われるためだ」と指摘している。(TLS Jan. 11, 1917; Jones 14)しかし、こうした高い評価は、個別の作品に与えられたものではないことに注意しておく必要があるだろう。
また、イマジズムは、主観の除去によって、対象と詩人との距離を拡大する。それゆえに、書く者と書かれる物との19世紀的な支配・被支配の関係を絶ち切るわけで、これは、ある意味では、近代科学がもたらした、客観性を信じる人間対事物の関係を究極へ運び去る役割を果たす。究極へとは、人類の主観の最後の拠り所と思われる文学においてさえ、近代科学にすすんで敗北したように見えるためだが。
しかし、この「主観の除去」とは、大いなる虚構である。言葉である限り、どのような装いをとろうとも、「ある主観」によって制御されていることは隠しようのない事実であるからだ。さらに言うならば、「主観の除去」というスローガンは、虚構というよりも、幻想であろう。むしろ、括弧に入れられた絶対(的な)主観が、見え隠れするように思える。したがって、当時の歴史的な役割とは別に、今日の時点に立って、歴史的に振り返るならば、イマジズムは、危険な役割もまた担っていると言えよう。なぜならば、客観性を信じさせ、事物への人間的な関係を遮断することで、逆に、目に見えない支配層の、事物だけでなく人間にさえも及ぶ支配力を強化するために働く恐れがあるから。むしろ問うべきは、イメジが氾濫し、言葉が消費されるためだけに生みだされる現代の悲劇的な事態を、いかにして、わたしたちは、克服できるのであろうか。

2アメリカン・モダニスムの特徴
まず、モダニスム("Modernism")の語源に関してであるが、よく知られているはずですが、もともと、ラテン語で"Modernus"という言葉は、5世紀後半、キリスト教が公認された当時における現在を、ローマ的で異教的な過去から区別するために用いられたという。それ以降、「モダン」という言葉は、12世紀カール大帝時代、ルネッサンス、17世紀フランスなど、自らを古いものから新しいものへの移行の結果として見做すような時代意識を意味した。したがって、ある意味で、モダニズムの定義は、モダニズムではないものとの関係でなされるべきかもしれない。(Howe 13)この意味で、ロマン主義者もまたモダニストと言える。彼らは、近代科学から力を得て、認識の無限の進歩と社会および道徳の改善経の無限の発展を信じていた。このロマン主義の中から、自らをいかなる特定の歴史的結びつきからも解き放とうとするラディカルな近代性の意識が生じる。これは、「新しさ」を重視する立場であり、オリジナリティの神話は、ここに生まれる。(ハーバーマス17ー18頁)
さて、今ここで言うアメリカン・モダニズムの時代とは、冒頭に述べたアメリカの国際的な力の高まりを背景にして、文学史上初めて、アメリカ人たちが世界文学の先頭に立った時代である。それは、政治・経済から言えば、帝国主義戦争の時代であり、世界認識から言えば、古い有機的な世界観が崩壊した時代であった。文学的には、ロマン主義が堕落して安易な自己表現へ陥っており、それに対する反動として、第1次世界大戦から20年代にかけて起こったモダニズムが、文学蘇生の運動を展開したと言えよう。それは、いかにもアメリカ的な運動であった。
彼らアメリカン・モダニストのスローガンは、「新しくすること」("make it new")であり、また、イマジズムの唱えた事物の具象性・自由詩の原則・即物的表現を支持する。あるいは、言語における革命をめざし、現代社会に相応しい新しい言葉を探求してゆく。当初は特に、ホイットマンを拒否し、厳密な形式を尊重したので、言葉のマンネリズムに陥り、自己解体する危険をはらんでいた。ただし、彼らが集団として行動したわけではない。あくまでも個人の創作活動を重んじながら、結果として、共通の主張を行い、世界文学をリードしたのである。
アメリカン・モダニズムの特徴とは何であろうか。
まず第1の特徴として、伝統主義をあげるべきだろう。モダニストたちは、文学史、とりわけ、詩の歴史の中でじぶんの占める位置とは何かについて、すざまじいまでの自意識を持つ。だからこそ、反伝統主義さえも標榜する。
たとえば、ウォレス・スティーヴンズは、詩論らしい詩論は書いていないが、詩作品の中で詩論を展開したと言われるほど難解で抽象的な作品が多い。その彼の初期の「白鳥への揶揄」("Invective against Swans")(Stevens 4)という作品では、たとえば、白鳥を揶揄するが、もともと白鳥とは、イギリス詩の伝統の中では美しいものとして描かれてきていた。これは、彼があからさまに伝統への反逆を宣言したものと考えてよいだろう。ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは、主流であるイギリス詩に対抗して、「アメリカニズム:アメリカ語による詩作」を生涯の仕事とする。エズラ・パウンドは、「古いものこそ新しい」をスローガンとして、詩作を続ける。彼のライフ・ワークである『キャントーズ』(Cantos)冒頭の作品は、ホメロスのギリシャ長編叙事詩『オデュッセイア』の翻案であった。また、エリオットは、エッセイ「伝統と個人の才能」("Tradition and the Individual Talent")で、25歳を過ぎて詩作を続けようとする者は、自国の文学史だけでなく、ギリシャ・ローマ以来の詩の伝統を念頭に置かねばならないと述べている。(エリオット9頁)
第2の特徴としては、誇大妄想狂的な詩人観がある。これは、文学への絶対的な信頼、すなわち、詩人には天命・義務があるという信念にもとづいて、詩が時代を変え、人類を救済するという確信を持つ。彼らモダニストたちは、時代状況としての全体性の喪失のなかで、なお、「文学」を文化変革の唯一の手段として信じていた。当時の科学的な発見(アインシュタインの相対性理論、ハイゼンベルグの不確定性理論、ボーアの量子力学など)や技術の発達は、これまでの時間と空間、主観と客観、物質とエネルギーなどに関する伝統的な世界観を揺るがし、結果として、より厳密で事実に即した科学的な記述以外は、なにものも説明しないといった通説が20世紀に流布するが、アメリカン・モダニストたちは断固として、これに反対した。
第3には、芸術家の制作物をユニークで象徴的で想像力に富んだ「作品」と見做す点もまた、モダニズムの特徴としてあげるべきだろう。(フォスター5頁)モダニズムは、もともと、啓蒙の物語、精神の弁証法、意味の解釈学、理性的主体の開放、人類の歴史的発展などを意味する「メタ言説」、ないしは、「大きな物語」を前提とするが、アメリカン・モダニストの時代とは、「知」の修得が精神や人格、教養の形成と同義であると信じた最後の時代でもあった。
第4には、大衆への嫌悪感であろう。モダニストたちは、暗黙裡に一般大衆、すなわち、芸術や美を理解しない者を共通の敵とし、激しい嫌悪感を示す。この嫌悪感は、技法上の特徴からも確かめられる。文学史の伝統と関係する詩的技法であるが、彼らは、これまでの詩の歴史と伝統の厚みを作品の中に取り込む。具体的には、先行する大詩人たちの作品へ言及したり、その言葉を応用したり、直接、引用したりして、読者に知的な背景がないと作品が理解しづらい印象を与える。また、仮面やペルソナを多用する。彼らにとって、詩作品や詩人たちは偉大なのであり、それに比して、文学を理解しない者はなんらの存在価値もなかった。

3アメリカン・モダニストたちとヨーロッパとの関係において
ヨーロッパとの関係は、それぞれの詩人たちの詩学に大きく関わっている。
ウォレス・スティーヴンズ(Wallace Stevens: 1879-1955)は、アメリカに留まったまま死ぬ。彼は、保険会社に事務弁護士として生涯勤務し、せいぜいが、東部から西部へ船で旅行する程度であった。ただし、フランスには激しい憧れを持っていたことは分かっている。
ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(William Carlos Williams: 1883-1963)は、幼少時代スイスに住んだことがあるが、彼もまた、ほぼアメリカに留まる。留まりつつ、「アメリカ語」を目指した。彼は、ニュー・ジャージー州ラザフォードで医者として生涯を過ごす。
エズラ・パウンド(Ezra Pound: 1885-1972)は、アメリカからイギリスへ渡り、その後イタリアで反米ラジオ放送を行なって、第2次世界大戦後、反逆罪に問われる。いったん、アメリカの病院に収容されるも、のちに釈免されて、再びイタリアに渡り、そこで生涯を閉じる。彼は、詩人以外であったことがない。彼の目指していたのは、詩の源泉に遡る「世界詩」であった。
T・S・エリオット(T.S.Eliot: 1888-1965)は、アメリカからヨーロッパ大陸を経てイギリスに渡って、そのままロンドンに留まり、後には、イギリス国教会に改宗し、イギリスに帰化する。自身の定義によれば、「政治的には王党派、宗教的にはアングリカン」である。彼もまた詩人であろうが、教員、銀行家などの職業に就いている。後には、「フェイバー」という出版社の副社長も勤めた。エリオットは、この4人の中ではもっとも若いが、そのためか、かえって、イマジズム的なものへ依存する傾向があり、とりわけ、彼の詩的な理論として有名な「自己の消去」(impersonality)という命題は、明らかに、イマジズム宣言を受けている。
この4人のアメリカン・モダニストがいかに女性を描いたかを検討する前に、簡単に、英詩の中で、女性はどのように描かれてきたかを概観しよう。

4英詩のなかの女性像
「女」("woman")の語源は、OEDによれば、「妻」("wife")を意味した言葉に、「人」の意味の"man"が付加されてできたという。しかし、現代のフェミニズム的な考え方も念頭に起きながら、「女」("woman")を解読すれば、「男のための子宮」("womb for man")、「男への苦悩」("woe for man")、あるいは、「男無しに生きる」("w/o man= without man")といった解釈もできよう。
女の属性として、幼女、少女、娘、婦人、夫人=妻、母、老女などがあるだろうが、詩の中で「女」としてうたわれたのは、シェイクスピア時代は、結婚前の娘が主であり、ロマン主義時代は、これに加えて、少女がうたわれ、また、自由恋愛しようよといった内容の作品も、バイロンやシェリーによって書かれた。その基本は、恋愛対象の女性であった。モダニズムの時代は、この対象に、婦人(Lady)や夫人=他人の妻、老女などが加わる。
ある意味では、シェイクスピアの頃のほうが、女を人間的に扱っているような印象を受ける。ただし、もちろん、女が男と対等で等身大の姿を現すというよりは、いい意味でも悪い意味でも、男にとって欲望の対象であったことは確かだが。詩を捧げる相手はみな、美しい女と相場が決まっていたが、そうした女に対して、主として、おまえの美しさを後世に残すためにも子どもを作った方がいい、あるいは、美しい時期は短いといった論理を用いて説得しながら、互いに愛し合おうと持ちかける。
ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare: 1564-1616)の「ソネット」(Sonnet)12番では、子どもを産むことが唯一、美しさを破滅させる時間に対抗できる手だてだとうたう。

君の美しさも 危ぶまれる
やがては 君も 時間の破滅のなかへ行かねばならぬ
甘く美しいものすべてが 衰えて
ほかのまた美しいものが成長する早さで 死んで行くから
時間という草刈り鎌に対抗する手だては ただ
子孫 君が刈り取られても 子孫だけが 時間に対抗できる

Then of thy beauty do I question make,
That thou among the wastes of time must go,
Since sweets and beauties do themselves forsake
And die as fast as they see others grow;
And nothing ユgainst Timeユs scythe can make defense
Save breed, to brave him when he takes thee hence.     (NAP 235)

ヘリック(Robert Herick: 1591-1674))もまた、美を奪う時間を理由にして説得を試みる。

だからはにかむのは止めて じぶんの青春を生き
 まだ間に合ううちに 結婚するがいい
だって いったん 花の盛りを失えば
 永久に 待ちぼうけ

Then be not coy, but use your time,
And, while ye may, go marry;
For, having lost but once your prime,
you may forever tarry. ("To the Virgins, to Make Much of Time" NAP 320)

マーヴェル(Andrew Marvell: 1621-1678)もまた「恥じらう恋人へ」("To His Coy Mistress")で、「おれは、おまえをノアの大洪水よりも前から愛し、最後の審判にまぎわまでも愛し続けよう。しかし、おれの後ろからは、時間が恐ろしげに接近し、おまえの命を奪おうとする。だから、まだ、おまえが若いうちに、愛し合おうよ」と恋人にうたいかける。(NAP 435-36)
こうした女性のうたい方と説得の仕方は、実は、ギリシャの頃からあった。次のは、プラトン(Plato: 427?-?347 B.C.)の作品だと言われているが、17世紀のイギリス詩は、この路線を引き継いでいたと言えよう。

りんご

おまえにりんごをあげよう おれを愛せるかい?
受け取れよ 代わりにおまえの少女らしさを おくれ
もしもいやだというのなら それでも
りんごを受け取って よく見てごらん
そして どのくらいその美しさがもつのか考えてごらん

I've tossed an apple to you; if you can love me,
take it. Give me your girlhood in exchange.
If you think what I hope you wonユt, though,
take it, look at it:
consider how briefly its beauty is going to last.         (Nims 54)

荒木英世によれば、古代ギリシア社会での「りんご」は、不死を表していたという。その「りんご」でさえ、ほんの短いあいだしか美しくないのだから、いわんや、「おまえの少女らしさ」をやとほのめかしている。人間にとって時間の別名でもある「老い」はいわば、女の弱みであり、男にとっての攻撃の武器でもあり、また、説得の材料でもあった。
イギリス・ロマン主義者たちの作品をここで引用しないが、それぞれの作品を読みながら、ワーズワース、コールリッジ、シェリー、キーツと名をあげて、彼らの女性観に関して共通点を見出すのは意外と難しい。たとえば、コールリッジは、女をうたった傑作を残していない。シェリーは、バイロンと同じく、女を恋愛対象とみなす。ただ、ロマン主義者たちが女性に美を見いだしていることは間違いないし、また、ある種の憧れを持っていたという指摘も誤っていないだろうと思われる。とりわけワーズワースやキーツを念頭に置きながら言うと、女を自然の事物に昇華したり、星や花に喩えたり、恐ろしいものとしての美、人間を死にさえ追いやるような美、その体現としての女という描き方をしている。

ここで、フェミニズムが好む「セックス」、「ジェンダー」および「欲望」という概念を導入してみよう。「セックス」というのは、簡単に言えば、生まれつきの性であり、「ジェンダー」とは、この生まれつきの性に加わる文化的・社会的・歴史的な刻印や要請、ないし、それらを再生する装置、システムを意味するが、そして「欲望」は、そのどちらにも関わるが、(Butler 7, 22)シェイクスピアの頃は、「女」は、「欲望」の対象であり、男とは違う「セックス」として扱われていた。もう少し、フェミニズム的に言うと、女が男の「欲望」の対象でしかあり得ないような育て方を、当時の社会が、男女両方に対して行ったということだろう。シェイクスピアの頃と比較しつつ、歴史的には後からやってきた運動体だと言うことを考慮すれば、ロマン主義は、見た目ほど単純でも無知でもない。ロマン主義者たちは、女を世俗的な「欲望」の対象から切り離して、詩人たちの上に君臨する姿で女を審美的に救済するように見せつつ、実は、女から社会性を剥奪していたと言えよう。
20世紀の前半はまだ、フェミニズムが見えない頃だったが、しかし、その予兆はあった。当時のアメリカには、「フラッパー」ないし「新しい女」という新しいタイプの女たちが出現している。「フラッパー」(flapper)とは、自由を求めて行動や服装に突飛なことをした、生意気な現代娘、若い女性たちであり、「新しい女」(a new woman)とは、因習を排斥し、男女同権を求めた女たちである。しかし、自由な自己表現や個人主義を主張したはずのモダニストたちは、けっして、こうした主張を女たちにまで広げようとしなかった。むしろ、パウンド、ウィリアムズ、エリオットは、ヘミングウェイやフッツジェラルドと同様に、こうした女性たちがアメリカの堕落の象徴であるとして、弾劾している。(NAAL 982-29)
モダニストたちは、現実社会のなかで次第に等身大の姿として現れ始める女に対して、扱いかねるという意味での困惑と、恐れにも似た感情とをない交ぜにしながら、なお、どこかしら、伝統的な女性像への憧れも保っていた。

5アメリカン・モダニズムと女性像
アメリカン・モダニストたちが女性像に関して、何を新しくしたのだろうか。あるいは、彼らの作品のなかで、詩人と対象との新しい関係が実現しているのだろうか?
1)ウォレス・スティーヴンズ:ブルジョワジーの夢と女性蔑視
スティーヴンズは、完璧なアメリカ的マッチョであった。その意味する内容は、家を建て家族を養うのが男子一生の仕事であり、詩など書くのは女めしいということだ。こうした人生観は、彼の父が教えこんだものだが、これに縛られながら、しかし、ヨーロッパ、特に、フランスへの憧れとも劣等感とも言いがたい奇妙なコンプレックスを抱いて、スティーヴンズは、定職に就いてからやっと、若い頃に望みつつ父の言葉で中断していた詩作を再開した。彼の体格は、押し出しがよいと言うよりも、むしろ太っていて、本人の勤め先は保険会社なのに、健康チェックに毎年引っかかって、生命保険に入れなかった。彼が第一詩集を出したのは、1923年、43歳の時だ。
次に引用する「日曜の朝」("Sunday Morning," 1915)は、こうした伝記上の事実を踏まえて、宗教や女性像に対する2律背反な態度を示す。あるいは、「女」とは、スティーヴンズにとって詩そおものだったのかもしれない。

日曜日の朝


部屋着の満足さ 遅い
コーヒーとオレンジのある 日の当たる椅子
コカトーの緑の自由
それらが絨毯のうえで混じりあい 雲散霧消する
いにしえの犠牲の聖なる沈黙
彼女の見るのは わずかな夢であり 彼女が感じるのは 暗く
侵入する あの古代の破滅である
水明かりのなか 静寂が暗くなる
舌を刺すオレンジと 明るい緑の羽も
属するのは 死者たちのある行進だろう
広い水を音もなく渡り行くこと
この日は 音のない 広い水のようであり
静けさが増す 彼女の夢見る足もとが過ぎゆくように
海を越えて 静かなパレスティナへ
あの血と墓地の領域のほうへ

Complacencies of the peignoir, and late
Coffee and oranges in a sunny chair,
And the green freedom of a cockatoo
upon a rug mingle to dissipate
The holy hush of ancient sacrifice.
She dreams a little, and she feels the dark
Encroachment of that old catastrophe,
As a calm darkens among water-lights.
The pungent oranges and bright, green wings
Seem things in some procession of the dead,
Winding across wide water, without sound.
The day is like wide water, without sound,
Stilled for the passing of her dreaming feet
Over the seas, to silent Palestine,
Dominion of the blood and sepulchre.            (NAP 1151)

ここに姿を見せているのは、日曜日の朝、教会に行かずにいながら宗教的な雰囲気を愛する富裕な女であり、また、救済を信じていないのに、「マタイによる福音書」14章25節に描かれた、水のうえを渡るキリストへと自己同化して行く自我である。
「お高くとまった老クリスチャン婦人」("A High-Toned Old Christian Woman," 1923: NAAL 1145)もまた、奇妙な作品である。表面的には、2項対立の提示によって、その中間が真理であると訴えているように見える。しかし、タイトルで「女」(Woman)と言い、本文中で「マダム」(madame)と言い直すように、相手に面と向かえば態度や言葉使いを変える姿を、はしなくも暴露している。作品を振り返っても、女の言葉が無いし、どこかしら遠巻きにして女を眺めつつ呼びかけて、文学の至高性を訴えているが、しかし、女に直に触れはしない。だいいち、なぜ、老クリスチャン婦人に詩の大切さを説教したいのか理解しがたい。しかも、説得するため言及する例のひとつが、たとえば、信仰の情熱を高めようと自らを鞭打つ修業僧であった。そこには、女への恐れと同時に、蔑視を読みとってよいだろう。
伝記を見ると、ウォレス・スティーヴンズは、非常に慎重で、そのぶん、臆病な人間ではないかと思わせる。彼は、じぶんをグルメと称して、毎日午後3時になると事務所の地下室に降りていって、コーヒーをいれた。いつも、ピン札をもって歩く男でもあった。彼はまた、地道にこつこつとお金を貯めて、アメリカ合衆国中がまだ大恐慌から回復していなかった1932年に、現金で家屋敷を購入している。じぶんが詩を書いていることを同僚に隠し続けた。

2)ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ:他者としての女
ウィリアムズの「若い主婦」("The Young Housewife," 1916)は、あからさまに男の欲望を表現する。

若い主婦

午前10時 若い主婦が
ネグリジェ姿で 動き回るのは
彼女の夫の家 木製の壁の背後
わたしは 孤独に車で通り過ぎる

それから再び 彼女は 縁石のところに出て
氷屋や魚屋を呼ぶ その姿は
恥かしげで コルセットもせずに 後れ毛を
押し込んでいる わたしは 彼女を
落ち葉にたとえよう

わたしの車の 静かな車輪が
ぱちぱちと音たてて 乾いた葉を
踏む わたしは 頭を下げて微笑み 通り過ぎる

At ten A.M. the young housewife
moves about in negligee behind
the wooden walls of her husbandユs house.
I pass solitary in my car.

Then again she comes to the curb
to call the ice-man, fish-man, and stands
shy, uncorseted, tucking in
stray ends of hair, and I compare her
to a fallen leaf.

The noiseless wheels of my car
rush with a crackling sound over
dried leaves as I bow and pass smiling.        (NAAL 1166)

「午前10時」に「木製の壁の背後」を透視する語り手には、ネグリジェを着て動き回る女の姿が見えている。また、女の「夫」へわざわざ言及する点に、抑圧された嫉妬を見て取ってよいだろう。相手が結婚している女であって見れば、彼は、「孤独に車で通り過ぎる」ほか無い。それなのに、「それから再び」彼女を見るために現場に戻り、「コルセットもせずに」と言うとおり、彼はまた、透視を行う。しかも今回は、彼女の裸の身体を透視している。
彼は、比喩を比喩として意識化し、そのうえで、「彼女を/枯れ葉にたとえよう」とわざわざ言う。それは、比喩することへの意識的な距離感を保つことが必要だったのだろう。透視=視姦=欲望であるように、女=落ち葉=枯れ葉とは、欲望の間接表現でもある。すなわち、落ち葉にたとえた後に、それを踏みしだく行為は、語り手の欲望を表現していると言えよう。なぜなら、女を喩えた落ち葉を踏みしだくのだから、間接的に、女を踏みしだくことに他ならないためだ。作者が医者であることを考慮してよいのならば、女が家族の誰かの看病をしていて疲れている様子へのシンパシーとも、推測できる。ただし、この場合でも、「わたし」の女への隠された欲望を否定することは到底、できないが。
ウィリアムズの「ある婦人の肖像」("Portrait of a Lady," 1920)では、男と等身大の女が登場する。ただし、男女間に対等で交流しあう対話が成立しているわけではない。

ある婦人の肖像

おまえの太股は りんごの木
その花ばなが 空に触れる
どの空? 空とは
ワトーが あるレディーの
履き物を引っかけた空 おまえの膝は
南のそよ風ーーあるいは
吹雪でしょ ああ! どんな
人だったっけ フラゴナールって?
ーーまるで それが何にでも
答えるように ああ そうです その
膝の下には 調べが
あちらへ落ちるように それは
あの白い夏の日びの1日
おまえの踝の 背の高い草が
海辺に きらきらと光るーー
どこの海辺?ーー
砂が おれの唇に付いてーー
どこの海辺?
ああ それは花びらかもしれない どうして
おれが知っていようか
どこの海辺? どこの海辺だって?
おれが りんごの木の花びらだって 言ってるだろ

Your thighs are appletrees
whose blossoms touch the sky.
Which sky? The sky
where Watteau hung a ladyユs
slipper. Your knees
are a southern breeze --- or
a gust of snow. Agh! what
sort of man was Fragonard?
--- as if that answered
anything. Ah, yes -- below
the knees, since the tune
drops that way, it is
one of those white summer days,
the tall grass of your ankles
flickers upon the shore ---
Which shore? ---
the sand clings to my lips ---
Which shore?
Agh, petals maybe. How
should I know?
Which shore? Which shore?
I said petals from an appletree.           (NAAL 1166-67)

既に上記の訳で気付かれるかもしれないが、一方に、女を讃えつつ支配しようとするロマンティックな男の欲望があり、他方には、そのロマンティックな男をからかう現実の女の自我意識がある。作品中の質問群は、たいていの批評家が解釈するのと違って、男の内面に浮かぶ言葉ではない。これは、ワトーとフラゴナールへの言及によって分かる。
ワトー(Jean Antoine Watteau: 1684-1721)もフラゴナール(Jean Honore Fragonard: 1732-1806)もともに、ブランコに乗った貴婦人と彼女を背後から押す男を画題とした絵を残しているが、一方のワトーは、その2人だけのシンプルな構図であり、他方、フラゴナールは、貴婦人の前方に隠れて貴婦人のスカートの下を覗く男を配している。(坂本70、82頁)ただし、貴婦人のスリッパが空に脱げるのは、フラゴナールのほうであるから、「あるレディーの/履き物を引っかけた空」とは、ワトーの空ではない。したがって、「フラゴナール」への言及は、絵画に関する知識の訂正をほのめかすと考えるべきだろう。そこで、問うべきなのは、語り手が自らの誤りを訂正しようとしたのか、それとも、介入する作者の可能性を含めて、別の人物が質問したのかである。もしも前者が正解だとすれば、それは不合理である。なぜなら、その場合の表現は、「どんな/人だったっけ フラゴナールって?」とならずに、「いや、あれはフラゴナールの絵だったかな?」といった主旨が自からの問いになるはずであから。また、語り手は、6行目で「南のそよ風」と言い、また、りんごの花の咲く季節や夏のイメジに一貫しようとするのに対して、まったく正反対の「吹雪」を提示するのが、語り手であるとは考えづらい。したがって、語り手以外の誰かが彼に問うていると考えたほうが合理的だろう。すると、問うのは、誰なのであろうか。
じぶん以外の者の問いに対して、語り手がそれなりの答えや反応を示しているように思えることから、作品の外から作者が介入しているとするのは、やはり不合理である。むしろ、その語りの場にいるはずの、語り手が讃えようとしている女性が、彼に問うていると解釈したほうがいいだろう。以下、この解釈に従って、女性の言葉であると推測できる部分をゴシックで示しながら、作品をもう一度読み直そう。

おまえの太股は りんごの木
その花ばなが 空に触れる
どの空? 空とは
ワトーが あるレディーの
履き物を引っかけた空 おまえの膝は
南のそよ風ーーあるいは
吹雪でしょ ああ! どんな
人だったっけ フラゴナールって?
ーーまるで それが何にでも
答えるように ああ そうです その
膝の下には 調べが
あちらへ落ちるように それは
あの白い夏の日びの1日
おまえの踝の 背の高い草が
海辺に きらきらと光るーー
どこの海辺?ーー
砂が おれの唇に付いてーー
どこの海辺?
ああ それは花びらかもしれない どうして
おれが知っていようか
どこの海辺? どこの海辺だって?
おれが りんごの木の花びらだって 言ってるだろ

以上からより明確になったと思うが、この作品は、女の言葉には耳を貸さずに女を讃えようとする男を、当の女がからかう様子をよく描いている。結果として、美や伝統や男優位への批判を伝えると同時に、男の側の苛立ちもまた、よく表現されている。
ウィリアムズのこの2作品から分かることは、もはや、男の支配下には保っておけない女の存在と、それへなお惹かれる男の側の欲望であろう。ウィリアムズの世界において、女は、既に他者である。
伝記上ウィリアムズは、婚外交渉を少なからず行ったことが明らかになっている。彼は、それを作品の中で隠しさえしなかった。彼のライフ・ワークである長編詩『パタソン』(Paterson, 1946-58)では、女との絡みがたくさん出て来る。また、ここでの説明は省くが、他の女たちと関係したことを妻へ告白し謝罪する「アスフォデル」("Asphodel," 1955)という作品も書いている。そして、これは、彼の後期の傑作といわれる。
彼の『自伝』によせる序文には、「わたしはベッドをともにした女たちのことを詳しく話そうとは思っていない、いや、何も言うまい。そんなことを詮索しないでくれ。それは、わたしと何の関係もないのだ。男たちや女たちとの関係で、わたしの心をとても深く動かした出会いはすべて、ベッドの中で起こったのではない。わたしは、欲望において極端にセクシャルであり、いつでもどこでも、欲望を持ち歩いている。ここからわたしたちみんなに力を与えてる、突き動かすものが起きてくるのだと思う。この突き動かしが与えられると、男は、心の赴くままにそれを処理する。この力を向ける様子に、男の秘密が横たわっている。わたしたちは、いつも、人生の秘密を人目に付かないようにしている。したがって、わたしの人生の隠された核心だと思うことがらは、この場(=『自伝』)のように外的な状況を話そうとする時でさえ、容易には、明かされないだろう」と述べている。(Williams xi-xii)

3)エズラ・パウンド:虚無としての女
エズラ・パウンドは、非常に評価の難しい詩人であるが、その理由を以下に羅列すると、
(1)彼の仕事に幅がありすぎる:彼はもちろん、詩人であるが、叙情詩から長編叙事詩まで書き、また、前衛的な作品も残している。同時に、イマジズム、ヴォーティシズムなどの指導を行った。彼は、古代エジプト詩、古代中国漢詩、ロマンス吟遊詩、古典イタリア詩、日本の能までを翻訳し、また、編集者としても活躍した。文学の教師でもあり、若い文学者の育成や援助を行う。さらには、文学批評家、劇詩家、思想家、また、音楽愛好者でもあった。
(2)たとえば、『キャントーズ』の詩篇どうしを比べると分かるが、作品の出来不出来にムラがありすぎる。
(3)右翼的、ファシズム的政治思想の問題:彼は、思想的にファシズムを支持し、反ユダヤ主義。反アメリカを標榜した。しかも、高利貸し批判、ユダヤ批判、ムッソリーニ側に立った反アメリカ宣伝にみられるように、破壊的で革命的である。
(4)パウンドの中のディレンマ:彼の詩学には、ヨーロッパ文化への二律背反、アメリカへの二律背反、ホイットマンへの二律背反、お金への二律背反、「翻訳は創作である」という台詞が示す詩作品への二律背反が明白に見られる。
(5)統一性、一貫性の無さ:上記(4)をむしろ恣意的に利用して、絶えざる自己破壊を行い、前作を乗り越えるというよりは前作を否定するような変化を示す。言い換えれば、先行するイメジを膨らますというよりは先行するイメジに対立するイメジを導入する手法を好む。また、じぶんの理想に関しても、『スピリット・オヴ・ロマンス』では中世中頃のプロヴァンスからルネッサンスの直前までを理想の時代としていたのに、いつのまにか、孔子と儒教の世界に変わっていた。
 パウンドの「ある婦人の肖像」("Portrait dユune Femme," 1912)は、彼のロンドン時代の作品であるが、2律背反的な女性観を伝えている。

ある婦人の肖像

貴女の心と貴女は われらがサガッソー海
ロンドン中が この20年 貴女の回りをさっと過ぎた
灯を点した船が 貴女に あれやこれやを心付けに残す
いろんな考え 古い噂話 すべての物のつまらない部分
奇妙な帆柱のような知識 くすんだ高価な陶器など
偉大な心が 貴女を求めたが それは 別の人がいなかったから
貴女は いつも代用品でした 悲劇的?
いや 貴女は そっちのほうが普通のことよりよいと思った
頭の悪い男 つまらなくて女房に甘い奴
平均的な心 毎年 ひとつづつ考えが減って行く
ええ 貴女は 我慢強かった わたしは 貴女の姿を見ていました
何時間も座っていて そこは 何かが浮かんだったかもしれない場所です
そして 貴女が支払う ええ 惜しげもなく支払うのです
貴女は 何か面白い方で 貴女を訪ねて人がやってきて
奇妙な獲物を持ち去ります
釣り上げたトロフィーとか へんてこな考えとか
袋小路の事実とか 小話をひとつふたつ
マンドレークで膨れ上がっていたり それとも何か他の
あるいは役立つかもしれないが 証明はされいない物とか
角にぴったり来ない物とか 役立たずとか
日びの翳りに その時を見出す
変色した安ピカの素敵な骨董品
偶像 竜涎香 珍しい象眼細工
こうした物が 貴女の宝物 貴女の大切な蓄え それでも
これらすべての海の貯え つかの間の品じな
半ば水に浸かった奇妙な森 新しいというより明るい品が
光の変わる深みにゆっくりと浮遊しながら
いや 何もない すべて隅から隅まで
貴女の物と言えるのは 何もないのです
   それでも それが 貴女です

Your mind and you are our Sargasso Sea,
London has swept about you this score years
And bright ships left you this or that in fee:
Ideas, old gossip, oddments of all things,
Strange spars of knowledge and dimmed wares of price.
Great minds have sought you--lacking someone else.
You have been second always. Tragical?
No. You preferred it to the usual thing:
One dull man, dulling and uxorious,
One average mind--with one thought less, each year.
Oh, you are patient, I have seen you sit
Hours, where something might have floated up.
And now you pay one. Yes, you richly pay.
You are a person of some interest, one comes to you
And takes strange gain away:
Trophies fished up; some curious suggestion;
Fact that leads nowhere; and a tale or two,
Pregnant with mandrakes, or with something else
That might prove useful and yet never proves, 
That never fits a corner or shows use,
Or finds its hour upon the loom of days:
The tarnished, gaudy, wonderful old work;
Idols and ambergris and rare inlays,
These are your riches, your great store; and yet
For all this sea-hoard of deciduous things,
Strange woods half sodden, and new brighter stuff:
In the slow float of differing light and deep,
No! there is nothing! In the whole and all,
Nothing that's quite your own.
Yet this is you.               (NAP 1186-87)

この作品は、語り手をいわば全知の立場に置いて女に呼びかける形を取るが、叙述的であり、女の言葉は無い。タイトルがフランス語で「女」(femme)と表現している点からも、彼女をロンドン社交界のサロンの女として仄めかしながら、本文中では「代用品でよい」と女に述べさせて、男のご都合主義を思わせる。
サガッソー海は北大西洋にあり、サガサム(ホンダワラ属)という茶色い海草に覆われた比較的静かな海であるが、沈没船の宝庫であるとも言われている。(EA)そうした海に女を比喩する点から、全体のメッセージとしては、女の華やかさとくだらなさ、虚無としての女の姿を伝えるが、しかし、それは、彼女への関心を否定するものではない。むしろ、対象の女性に大いなる関心を寄せていることも確かであるから、パウンドの女性観に2律背反が見られると言えよう。すなわち、虚無の女を作品に取り上げざるを得ないパウンドの女性観とは、とりもなおさず、追いつめられつつある男の優位性を逆照射するのだろう。
女性関係を伝記から言うと、パウンドには、愛人がいた。イタリアに住んでるとき、時おり家庭から姿を消し、それも、2、3日というのではなくて、1カ月くらい、別な女のところで暮らした。その女は、オルガ・ラッジと言って、1895年4月13日(トマス・ジェファソンと同じ日)にオハイオ州に生まれたアメリカ人でヴァイオリニストだった。パウンドと彼女は、イタリア移住以前のパリの音楽会で出会って以来、親しい関係となった。そして、オルガが1年がかりでパウンドを説得して子どもを生むことにしたという。生まれたのは女の子でメアリと言うが、彼女はのちに、しばらく、パウンドの遺稿のほとんどが寄贈されているイェール大学バイネッケ図書館に勤めていたことがある。パウンドとオルガの愛は、第2次世界大戦を生き抜き、パウンドの逮捕を越えて、パウンドが死ぬまで続いた。
彼には、オマールという男の子が、正妻であるドロシー・パウンドとの間にいたが、本当にパウンドの子どもかどうかを疑う学者もいる。エズラ・パウンドは、30年代、40年代、また、60年代以降、ほとんどオルガと暮らし、時おり、ドロシーを尋ねるという生活を送ったという。ドロシー・パウンド、正しい妻のほうは、「委員会」と称して、パウンドのコピーライトの管理を行っていた。晩年に、「もう18カ月も会っていない」と愚痴を言っている。
1972年11月、エズラ・パウンドが死ぬ。すべての遺産を、オルガとの子どもメアリーに残すと遺言するが、これが、有効かどうかをめぐって、イタリア司法当局が悩む。と言うのも、パウンドはイタリア人ではない。しかし、アメリカに1945年に強制送還されているので、アメリカの法律も適用できない。どちらの国の法律に従えばいいのだろうか?
1973年12月8日、ドロシー・パウンドが死ぬ。
オルガは、2、3年前になくなる。既に100歳を越えていた。メアリは今、パウンドの住処であったあのラパロの城に住んでいる。

4)T・S・エリオット:独白としての女
たとえば、エリオットの主張、「詩は、情緒の解放ではなくて情緒からの逃避であり、個性の表現ではなくて個性からの逃避である」と述べているが、(エリオット19頁)この文章で、感情や個性を女の愛に置き換えると、彼の女性観が見えてくる。すなわち、「詩というのは、女の愛の解放ではなくて女の愛からの逃避である」のだ。
エリオットも、ウィリアムズやパウンドと同じタイトル「ある婦人の肖像」("Portrait of a Lady," 1917)で詩作品を書いているが、そこには、けっきょく、女の愛から逃避する姿が見える。

ある婦人の肖像

   おまえが犯したのだー
   姦通を ただし 他の国の話だが
   それに その子は死んだが
            『マルタのユダヤ人』


 煙と霧に包まれた ある12月の午後
おまえは 場面をあるがままにしてーーまるでそう見えるようにしてーー
「わたし 今日の午後をあなたのために取っておきましたの」と言う
・・・
「あなたにはお分かりにならないのよ お友だちがわたしにどんなに大切かってことが・・・


・・・
まあいい! それで もしも 彼女がある午後に死んだなら
灰色に煙って 黄色でバラ色の夕暮れに死んだなら どうなるのだろう
彼女が死んで おれのほうは 手にペンを持って座って
家の屋根から煙が降りてきたなら
しばしは 疑い
何を感じるべきか 理解すべきかどうか
賢いのか愚かなのか 鈍いのか早すぎるのか分からないだろう・・・
けっきょく 彼女が勝つということではないか?
この音楽は 「消えゆく音」でうまく行っている
だって 今 消えゆくことを話しているからーー
で おれには 微笑む権利があるのか?

   Thou hast committed--
   Fornification; but that was in another country,
   And besides, the wench is dead.
    The Jew of Malta

1
Among the smoke and fog of a December afternoon
You have the scene arrange itself -- as it will seem to do --
With ヤI have saved this afternoon for youユ;
・・・
ヤYou do not know how much they mean to me, my friends, ・・・

3
・・・
Well! and what if she should die some afternoon,
Afternoon grey and smoky, evening yellow and rose;
Should die and leave me sitting pen in hand
With the smoke coming down above the housetops;
Doubtful, for awhile
Not knowing what to feel or if I understand
Or whether wise or foolish, tardy or too soon . . .
Would she not have the advantage, after all?
This music is successful with a ヤdying fallユ
Now that we talk of dying --
And should I have the right to smile?            (Eliot 18-21)

この作品は、追憶をもとにした叙述形式をとっているが、女へ「あなた」と呼びかけたり、「彼女」と第3人称で客観的に描いたりする点に、女との距離を測りかねている様子が見える。内容は、女との別れにすぎないが、冒頭のエピグラフなどから、なにか疚しいことを犯しながら隠している印象を与える。
作品のなかで、女がじぶんの言葉で語っているが、しかし、男との対話は成立していない。いわば、それは、女の独白に過ぎない。しかも、女の言葉は、その思考内容のつまらなさ、平凡さを浮き彫りにしている。一方的に女にしゃべらせながら、語り手の反応は、直接、女へ向けられず、地の文の中で、感想や思いの形で述べられている。その態度は、女へ直面することの恐怖を隠しているし、その内容は、じぶんの罪への言及や反省である。この自己言及は、4人のアメリカン・モダニストのなかで、エリオットだけに見られる特徴であろう。ここでは紹介しない他の作品とあわせて読めば、エリオットがかなり、自意識過剰だったことが分かる。
この作品は、1910年から12年の頃、エリオットがヨーロッパに旅立つ前に書かれていたが、ここでありありと分かるのは、女というものがじぶんの手に負えない存在だという認識である。実際のエリオットの人生においても、この認識が確認される。逆に言えば、「ある婦人の肖像」は、いわばエリオットの女性関係を予言する作品であった。
彼の女性関係は、基本的に不幸だった。1915年に結婚した相手ヴィヴィアンは、精神的な病になり、その長い看病のあとに、彼女は死ぬ。そのあいだ、彼はじぶんが彼女の不幸の原因であると思いながら、しかし、彼女との直接的な対決を避け続けた。(マシューズ171ー203頁)その一方で、たとえば、「J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌」("The Love Song of J. Alfred Prufrock," 1917)などの作品を詳しく読めば、売春宿の訪問などを暗示する箇所が見られる。また、永遠に未完で終わった猥褻な物語詩を書いていたことも知られている。(マシューズ59頁)

6まとめ:現代のほうへ
これら4人のモダニストが生きていた時代、アメリカでは、女性のめざましい地位の向上があった。たとえば、1921年、ニューヨークで1500人の観衆を前にしてひとりの看護婦がバース・コントロールについて語っていた。彼女によれば、性の喜びは出産と別のものである。性は、喜びのためにあってよく、必ずしも、子孫を生むためばかりのためではない。しかもこれは、神の認める神聖な喜びである、と主張した。この看護婦は、マーガレット・サンガー(Margaret Sanger: 1879-1966)といい、敬虔なクリスチャンであった。これまでの伝統的な考えによれば、性は妊娠と出産のためであり、実際、コムストック法という避妊の禁止法が、当時のアメリカにあった。サンガーは、この法律廃止と家族計画の実施にその生涯を捧げた。もちろん、彼女の考えは、結婚制度という枠の中であるが、それまでの暗いイメジを持っていた「避妊」(Contraception)という言い方を、女性が主体的な判断で妊娠をコントロールできる「バース・コントロール」(Birth Conrol)という言葉に変えた。これは、その主旨から言えば、「産児制限」というより「妊娠制限」と訳した方がよいだろう。こうした考えが生まれた背景には、彼女のヴォランティア活動があった。彼女は、無知ゆえに、貧しい女性が夫の欲望に身を任せ、妊娠を繰り返し、体を衰弱させて、ついには死んで行く姿を多く見てきた。
現在、サンガーは、性と出産の分離を主張して、妊娠制限を世界的な規模に広げ、性に関する倫理観を変えることで、女性を男の欲望から救った者として高く評価されている。(Gardella 130-140)
政治的に言えば、アメリカ合衆国で婦人参政権が全国的に認められたのが、1920年であった。ただし、州ごとに見れば、1869年ワイオミング準州、93年コロラド、96年ユタ、アイダホで既に、婦人参政権が認められてはいたが。20年代は、別名「ジャズの時代」とも言われるが、第1次世界大戦を経て、アメリカが債務国から債権国へ変わったその繁栄を謳歌する時代であり、また、女性の地位が向上する時代でもあった。

アメリカにおける現在の男女関係は、対等な者どうしが結ぶ愛の契約関係として集約されるだろう。
もともと、アメリカ合衆国は、西欧の近代思想をアメリカ大陸で純粋培養した国家であり、契約の概念が男女関係や結婚関係までおよぶ国であるから、夫婦と言えども、契約の不履行は許されない。愛情が無くなれば、離婚する。したがって、アメリカの夫婦関係は、いわば、緊張の連続と言えよう。仕事が終われば家に直行する夫が正しいのであり、日本のように、会社の帰りにちょっといっぱいとはいかない。妻は60歳、70歳になっても、いつもきれいに着飾り、愛情関係を刺激することが求められるし、夫のほうは妻の髪型を褒め、洋服が似合うと言い、「おまえを愛している」と毎日ささやく。アメリカ人の母親が、娘が離婚すると聞いて、まず質問するのが、たとえば、「おまえは、夜寝るときに、いったいどんなネグリジェを着ていたんだい?」である。
家族において親子関係を優先させる日本と違って、アメリカは、夫婦関係を重視する。帰宅する夫が子どもを抱き上げ、かつ、妻を抱かないのが日本だとすれば、夫がまず妻を抱き、その後子どもに話しかけるのがアメリカである。散歩するにしても、日本では、夫婦が子どもの手を握るが、アメリカは、夫婦が手を握る。車に乗る場合でも、日本人は、子どもを助手席に座らせがちだが、アメリカ人は、夫婦が前の座席に座るのがふつうである。また、たいていのアメリカ人夫婦は、一貫して、互いにファースト・ネームで呼び合う。子どもをベビー・シッターに預けて夫婦で夜の外出をするのがアメリカでは一般的だ。
家計は、スティーヴンズがその典型であったが、夫が管理する。水道代や電気代を払うのは、夫である。夫の週給や年収を知らない妻も、多い。結婚しても、互いに独立した個人であるから、夫の稼いだ金は、夫のものである。
日本では、夫婦和合、夫婦一体がモットーであり、女にとって結婚は、伝統的には「家の女=嫁」に変身する人生最大の儀式であった。家庭に入った日本の女は、乱れた髪にパジャマ姿で夫の出勤を見送ることが許される。飲んで帰宅する夫に釣り合うように、妻は、先に食事を済ましてしまうことが認められている。日本では、子どもが産まれると直ぐに、「パパ」や「おとうさん」、「ママ」や「おかあさん」に呼び名が変わる。伝統的には、子どもを夫婦の真ん中に挟んで「川」の字に親子が寝ることが理想とされてきた。日本は、夫婦の愛情よりも、家族という集団を最優先し、子どものためには、たとえ夫婦間に愛情が無くなっても耐えて行く。
しかし、アメリカ人は、日本の「家庭内離婚」という日本の奇妙な現象に驚く。彼らは、個人を発想の核とし、結婚とは個人と個人の契約に基づいた結合であるから、父親や母親として自己表現するよりも、一個の人間であることを、まず、強調する。
現状のアメリカは、初婚年齢の上昇、結婚率の低下、独身者・同棲者の増加、女性1人当たり出生数の低下、離婚の増加、1親家庭の増加、女性の自立化、といった傾向が顕著だと言われる。その評価は別にして、夫が外で働き、妻が家事・育児に専念し、子どもが少なくとも1人はいる伝統的で典型的な核家族の割合が、7家族に1家族だという報告もある。
この背景には、離婚を罪悪視する社会的な通念が後退して、とにかく結婚は永続すべし、から、不幸な結婚は解消すべし、という合理的な考え方に変化したことがあるだろう。また、離婚法の改正によって、1970年以降、有責離婚法から、破綻主義離婚法へ変わり、つまり、原因よりも実態を重視する方向へ変化し、同時に、離婚手続きの簡素化が進んだこともあるだろう。もちろん、離婚とは、ある特定のパートナーの否認に過ぎず、結婚制度や家族制度を否認しているわけではない。実際、再婚、再再婚を行う人びとが多い。
ある研究者によれば、アメリカ植民地時代のピューリタン社会は、「連続する単婚制度」を個人が実践していたという。(Davies 188)ピューリタンにとって、ただひとりの相手へ執着することは、この世への執着であり、結果として、神の救済を無とするものであった。事実、結婚相手が死亡すれば、あまり間をおかずに再婚する場合が少なからずあったことが分かっている。現在、アメリカン・オブセッションのひとつとして、単婚制度への執着があるが、これは、ピューリタニズムの逆説的な継承だと言えるかもしれない。確かに、アメリカの離婚率は高い。だが、だからといって、アメリカから結婚制度が無くなるわけではない。

モダニズムの時代、フロイトは、女を「欠如した性」と考えたが、たぶんいつかは、男が「過剰の性」と言われることもあるのだろう。ただし、当然、真実は、その中間にあるはずだが。アメリカン・モダニストたちは、「若くて美しい女」という、プラトン以来、19世紀ロマン主義者に至るまでの長い詩的呪縛から詩人たちを解放して、詩がうたう対象としての女性像を老女にまで拡大したが、それは、時代の変化によって、男に対して対等な立場を手に入れ始めた、拡大する女性たちの姿を反映していたと言えよう。モダニストたちは、現実社会で次第に、男と等身大の姿で現れ始める女に対して、困惑と恐れを感じながら、なお、憧れも保っていた。彼らがうたう女性像から推し量られる欲望は、アメリカン・マッチョとして男性優位を確保しようとする、男たちの最後のあがきであったのかもしれない。もはや、現代において、モダニストたちがうたうような女性像は、許されない。
はたして、現在の日本は、今、アメリカの歴史の中のどの辺りを生きているのであろうか。




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引用・参照文献一覧

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