2013年4月4日木曜日

さびしい海に囲まれて -日本現代詩への希求


『幻実の詩学:ロマン派と現代詩』監修 田村英之助 編集代表 太田雅孝
一23四五六七八九○一二3四五六七八九○一二3四五六七八九○一二3四五六七
本文+注=20行*20字*2段*14・5頁=400字詰原稿用紙29枚

 日本は、さびしい。
 したがって、このさびしい国で詩作してきた日本の詩人たちもさびしい。彼らは、
「さびしさ」の原因を見つめる自我や世界への厳しい眼差しを欠き、海の向こうを望
む志向を欠いて、さびしさを情緒的にうたうことで一生を費やしてきた。
 「さびしさ」がとりわけ、「詩語」であるのは、それが記憶を媒介としているため
である。過去への言及無しに、「さびしい」という感情は発露されない。もともと、
「さびしい」ないし「さびし」は、『古語辞典』によれば、「本来あった生気や活気
が失われて、荒涼としていると感じる意。そして、もとの活気ある、望ましい状態を
求める気持ちでいる意」とある。1『広辞苑』では、「欲しい対象が欠けていて物足
りない。満たされない。心楽しくない。もの悲しい」と説明する。2いずれにしろ、
「さびしさ」とは、何かが欠けていて、それを回復したいと意識する心情を指すと説
明されている。しかし、「さびしさ」は、その欠落を是が非にも回復しようという努
力や、欠落した現状を変えようとする意志を含むのだろうか。「さびしがる」という
動詞ならば、多少は回復への意志を含むだろう。しかし、これは、詩語ではない。
 「さびしい」という言葉の定義が示す、欠けたもの・失われたものとは、日本人に
とって何なのか。また、その回復とは、いかにして行われるのか。あるいは、ほんと
うに回復を願っているのだろうか。どのような地平で、いったい、「さびしい」と言
葉を発することができるのだろうか。むしろ、「さびしさ」は、欠落を現状として追
認し受け入れた上で、なお満たされない状態を、大きな意味で鑑賞してゆくようにさ
え思える。
 具体的に、「さびしい」や「さびしさ」をうたう日本の詩作品を取り上げてみよう
。かって、若山牧水(一八八五ー一九二八)が、

  幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ   國ぞ今日も旅ゆく3

と歌った。これは、「中國を巡りて、十首の内」と題されて三首紹介されているうち
の一首であるが、若山牧水の暗示する、現在「さびしさ」に溢れる国を、もちろん、
中国地方だと考えるべきではなく、これは、日本という国、ないしは、日本を抱えて異国
を旅するじぶん自身への言及であろう。
 あまたの日本人論も、金子光晴(一八九五ー一九七五)の「さびしさの歌」に如か
ない。4「どっからしみ出してくるんだ。この寂しさのやつは」で第一行目が始まる
、この作品は、日本人が民族として抱え込む欠落の心情を明白に「さびしさ」で捉え
る。『落下傘』(一九四八)に収録されているが、執筆時期は、第二次世界大戦で日
本が敗れる三カ月前だと言う。5

  この国では、
  さびしさ丈けがいつも新鮮だ
 
日本文学のすべてに、金子は、「さびしさ」にもとづく詠嘆を見出す。「しかし、僕
の寂しさは、/こんな国に僕が生まれあわせたことだ。」と言う時、また、戦争さえ
も「寂しさ」のせいだとする時、彼自身も、詠嘆から逃れているわけではない。
 「さびしさ」と混同されがちな「悲しみ」は、同じ詠嘆でありながら、主に現状に
起因する感情へ言及する言葉であり、この意味で、「さびしさ」がはらむ時間の深み
を欠いている。たとえば、窮乏の生活を送った石川啄木(一八八六 ー一九一二)は
、悲しみの詩人だ。彼の有名な歌集のタイトル『悲しき玩具』がそれを指し示してい
るだけでなく、作品中でも、「悲しい」や「悲しさ」などの言葉を頻用している。彼
は、受認することができない現状を悲しむので、懐かしみの視線で過去を振り返るこ
とができない。
 もちろん、石川にも、「さびしさ」を歌う作品はある。たとえば、

  何がなしに
  さびしくなれば出てあるく男となりて
  三月にもなれり6
                    さびしさには、その言葉の本義に従って
、何らかの原因があるはずだが、石川は、「何がなしに」と歌って放置する。むしろ
、ここで指摘すべきなのは、原因を見つめる努力を必要としない地平にこそ、彼の作
品が屹立しているということだ。次の作を読めば、さびしさへの対策は、石川啄木ら
しいと分かる。

  さびしさは
  色にしたしまぬ目のゆえと
  赤き花など買わせけるかな7

彼は、現状に「さびしさ」の原因を求めているのだ。石川啄木に、「さびしさ」は似
合わない。いかにも「さびしさ」とは、現状を受け入れて安定した、余裕ある精神に
のみ許される。たとえば、主を失って浪々の身となりながら仇討ちを諦めなかった赤
穂浪士に、「さびしさ」は、許されない。また、失恋して日の浅い者は、「さびしい
」という感情を持てない。悲しみや辛さ、悔しさはあるだろうが、過去に対する余裕
と距離がない。したがって、「さびしさ」の訪れようがない。ときおり同じ漢字が用
いられる「寂(さび)」は、芭蕉の芸術の本質をなす美的理念であり、幽玄・余情美
に満ちた枯淡、静寂な境地を指すとされ、「さびしさ」とは別の意味を付与されてい
る。しかし、「さびしさ」と同様に、「寂」は、精神的な安定や余裕を必要とする。
 人間の本性から言えば、「さびしさ」の根源には、人が人として生まれて本能的に
抱く自己の死への恐れと、自己を超える自己を、この世に伝えたいとする欲求とがあ
るのかもしれない。プラトンの『饗宴』によれば、本来の人間の容姿は球形であった
が、ゼウスによって二つに切断されてしまった。それゆえに、皆それぞれ自分の半身
を求めて一緒になり、昔の本然の姿を回復しようとする。8この説明がいかに荒唐無
稽に聞こえようとも、エロース=「完全なものへの欲望と追求」と、人間の本質に植
え付けられている「恋」とを強調していることは了解されよう。人は、人を恋する。
その恋が阻まれるとき、人は悲しい。その悲しみを受容した上で、なお、人を恋い続
けようとするとき、人は、さびしい。
 だが、日本語における「さびしさ」には、ある種の危険が含まれているように思う
。日本人は、コミュニティへの帰属意識や所属意識をつねに抱え込んで生きている。
これを「和」の意識と言ってよい。わたしたちにとって、どこかのグループに属して
いることが年来の習い性である。今でも、小学生が駅で騒いでいたりすると、注意す
る際に、小学生たちの名前ではなくて、「どこの学校だ?」と所属を聞いてしまう。
親戚や知人の子供が大学を卒業して就職すると聞くと、その職業ではなくて、「どこ
にお勤めですか」と所属すべき会社を尋ねる。これは、日本人の「和」=所属意識が
出現するためだろう。
 日本人には、個の意識よりも、集団の意識がより重視されるとよく言われるが、9
もう少し言えば、わたしたちは、幾つかの段階に分かれた所属意識を同時に所有して
いて、それぞれの「和」をいつも大切にするようにと、伝統的に育てられてきている
。たとえば、夫婦に「和」があり、家族に「和」があり、勤め先に「和」があり、ま
た、クラブにも「和」がある。それら無数の「和」の重なりや反発を一段高いところ
で統括するのが、大きな和、すなわち、「大和」である。「大和」とは、万葉の頃か
ら、日本民族を意味してきた。
 「さびしさ」とは、多くの日本人の場合、あるべきひとつの「和」から疎外されな
がら、個にふみとどまるのではなく、別の、ないし、より大きな「和」に所属し続け
る場合に生じる。したがって、「さびしい」と言葉を発しても、ほんとうに失われた
「和」の回復を願っているわけではない。別の、ないし、より大きな「和」の地平で
、「さびしい」と言葉を発しているにすぎないのだから。10

 立原道造(一九一四ー一九三九)の詩作品は、全て、「さびしさ」をうたっている
と言っても過言ではない。彼の作品の中には、直線的な時間が流れていない。「かっ
て」と「今」と「やがて」という時間の流れは、西欧的に言えば、歴史的な秩序を持
っているはずであるが、彼の場合、「今」を転回点として、「やがて」が「かって」
へと向かう。それは、まるで、日本的な時間感覚を小さく相似形になぞるようだ。な
ぜならば、日本的な時間感覚とは、直線ではなくて、元に戻る円であるから。「和」
が「輪」と同音であるのは、深い意味があることなのだろう。
 立原道造の「さびしさ」を考える上で最も重要な言葉が、「夢」である。彼の「夢
」は、いつも過去に属しており、全て、後ろ向きである。11一般的には、将来への夢
といった言い方もされるが、立原の中の「夢」は、過去を夢見る。帰るべきところが
どこかにあるように思う。そして、いつも帰ることができる場所とは、故郷であるか
ら、さびしさは、郷愁に近い。
 「今ここ」で、立原は、記憶によって「かって」を振り返り、「かたみ」によって
「かって」を想起する。「かたみ」が、記憶のよすがであって、「かって」のよすが
ではない。「かたみ」が過去の現前をもたらすのだ。そして、過去の中で、夢と女が
一体化する。これを典型的に示すのが、「泡雲幻夢童女の墓」という言葉であろう。
12そして、一体化した夢と女とが過ぎ去った遠い向こうへ定置される。

  ぼくは身をやさしく任せ、諦めていた。  おそらくいちばん美しかった日々の
ため  に。13

「いちばん美しかった日々」は、現在にあるわけではなく、未来において目指すべき
ものでもない。いつも、それは、過去へ投げ返されてゆく。
 彼が、「今ここ」に、さびしさとともにいる。現在は、「さびしさ」の玩味、鑑賞
、賞味としてある。過去における行為を悔いているのではない。むしろ、過去におけ
る行為への悔いを愛でている。
 立原道造は、リルケ(一八七五ー一九二六)の読解に打ち込むと二一歳の時に宣言
したが、そのリルケは、『マルテの手記』で、詩人の心構えを示している。内容は、
日本的な、あるいは、立原道造的な想像力の働きと、まったく異なるものだ。リルケ
もまた、思い出を大切にする点では一致するが、彼によれば、待つことの重要性と感
情の放棄、および、思い出ではなくて思い出の中に甦る言葉が強調される。

  詩はじっと待つべきものだ。生涯をかた  むけて、それもできることなら、な
がい  生涯をかたむけつくして、意味と蜜を集  めねばならない。そして、やっ
と最後   に、十行くらいのすぐれた詩が書けるだ  ろう。なぜなら、詩は、世
間の人が考え  ているように感情ではないからだ。(感  情なら、だれでも、早
くからありあまる  ほど持っている)ー詩は体験なのだ。14

思い出を想起し、忘却し、そして、時間の経過とともに、思い出が精神の中へ溶け込
み、詩人自身から区別できなくなるときまで、忍耐強く待たねばならない。思い出だ
けでは、まだ詩は生まれてこない。詩人自身から区別できなくなって「初めて、ふと
した機縁に触れて、一篇の詩の最初の言葉が、思い出のただなかに浮かび上がり、思
い出を母体として生まれてくるのだ。」この後に続けて、リルケは、「だが、ぼくの
詩はどれも、そういう風にして、生まれたのではなかった。だから、詩ではないのだ
。」と言う。この台詞が立原道造の価値をおとしめるとは思わない。ただ、思い出そ
のものをうたう立原の姿勢とは異なる、孤高の詩人の姿がリルケに垣間みられること
は確かだろう。
 立原が日本の近代詩で果たすべきでありながら、そして、その予兆をはらみながら
、結局、果たし得なかったのは、個の屹立である。同じ地平を目指したはずの伊東静
雄(一九○六ー一九五三)は、「さびしさ」を詩作の前提とし、現在を生きることの
重要性を底流に抱え込んでいる。たとえば、彼の作品に関して瞠目すべき点は、否定
形とそれをバネにした跳躍にある。

  いったい其処で
  お前の懸命に信じまいとしていることの
  何であるかを15

  如かない 人気ない山に上り
  切に希われた太陽をして
  殆ど死した湖の一面に遍照さするのに16

  私はうたわない
  短かった輝かしい日のことを
  寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ17

伊東静雄は、否定形の中に生きた。彼は、二三歳までに、三人の兄をすべて失い、二
七歳の時、父を失って、借金を負う。『わが人に与ふる哀歌』を出版したのは、その
三年後であった。第二詩集『夏花』の一篇で、「若死にをするほどの者は、自分のこ
とだけしか考へないのだ」と断言している。18こうして、皆が死んで行き、その後、
更に切り刻んで余分なものを切り捨てた空白の現在に、あるいは、否定形によって浮
かび上がらせた現存の地平に、伊東静雄は、個を屹立させる可能性があった。彼にと
って、うたうべきは「現在=いま」である。「雪解けのせはしき歌はいま汝をぞうた
ふ」が、立原道造に捧げた詩作品「沫雪」の最終行であった。19たとえそれが日本浪

漫派と呼ばれようとも、彼の試みは、評価されねばならない。むしろ、日本浪漫派と
して、戦前の歴史の一齣へ貶める方が危険であろう。
 立原道造には、伊東静雄と違って切り捨てるのではなくて、肯定的・発展的に、個
を確立させる可能性があった。「ひとりぼっちの夜更け」などと感傷的な言い方をす
ることもあるが、20少なくとも「今ここ」で、彼は、つねに孤独であったから。

  灼ける熱情となって
  自分をきたえよ
  ためらって 夕ぐれに
  青い水のほとりにたたずむな21

これは、「後期草稿詩篇」にある詩句だが、この決意が実現していたなら、彼が続け
て未来へ向けて命じた以下の言葉が、実態化したかも知れない。

  愛と 正しいものとの
  よって来るところのものと
  きづくものとを 確かに知れ22

あるいは、次の一段落が示す命令は、一人称複数形で過去への決別と、決意された未
来への眼差しを浮き彫りにする。

  けふ 私たちは岬に立って
  眼をあちらの方へ 投げ与えよう
  ひろいひろい水平線のあちらへ23

作田啓一『恥の文化再考』でも指摘されているように、24西欧の家族は、近代的な個
人を育てる場であったが、日本人が近代的な個人として育つためには、家族に反抗せ
ざるをえなかった。なぜなら、日本においては、家族を通して社会の圧力や権力が浸
透してくるためである。この点を強調して考えれば、立原道造は、常に、家族ととも
にあり、したがって、日本的な意味での「自我」意識を元来内包していたことを、「
年譜」が示している。25ここで「自我」と括弧を使用したのは、果たして日本に自我
意識が育っていたのかを疑うためだが、立原道造は、母の反対で、美術学校進学を断
念し、第一高等学校に入学した。その二年生の秋、通則に反して、自宅通学とした。
二○歳の時の手書き詩集『日曜日』を母に捧げる。信濃追分や軽井沢を始めとして、
尾鷲、大阪、京都、奈良、名古屋、山形、仙台、舞鶴、松江、下関、若松、福岡、柳
河、佐賀、長崎などを旅したり、滞在したりしたが、つねに、帰るべきところがあっ
た。死後、受けた法名は、「温恭院紫雲道範清信士」と言う。「雲」という文字が印
象的だ。
 本来、過去への視線が価値あるのは、未来への展望を得ようとする時である。しか
し、日本的な夢とは、かってあったと仮想する過去の至福を求める不幸な幸福追求、
あるいは、幸福な不幸追求に他ならない。日本的な夢は、未来で果たされるのではな
い。時間的には未来へ向かっていながら、実態としては、過去へ遡る。こうした意味
で、立原が若くして死ぬことは、立原道造の書いた作品の内容が決定したわけでは、
勿論、無いが、しかし、詩作品の内容を立原が生きたと言えよう。
 周囲を海で囲まれた国土に育ち、それを生活の場とする点で、英国人も日本人と同
様であるが、イギリス・ロマン派の詩人ウィリアム・ワーズワース(一七七○ー一八
五○)は、伊東静雄と立原道造がそれぞれ果たそうとしたことを、彼らよりも一○○
年以上も前に、ひとりの詩人の中で既に果たしている。ここで、英国の覇権志向や、
ワーズワースの偽善的な面、ないし、奇妙な安定感をあげつらう必要はない。彼もま
た、過去を追憶し、その現前化を図る。「ルーシー」諸篇で死んだ女をうたう。しか
し、彼は、単に、孤独を記憶に結びつけて詩作したのではない。過去を追憶の中で現
在へ結合し、その過去を踏まえた上で、より豊かな生を生きようとする姿勢を示す点
で、近代的自我の幸福な一例と見ることができよう。
 これを典型的に示す詩作品として、有名な詩作品「水仙」があげられる。26この中
で、立原道造が死後にして初めて果たせた「雲」への変貌を、ワーズワースは、既に
生存中に果たしている。

  私が 雲のように 一人さまようた時
  雲は 谷や丘を高く越えて流れるのだが
  私は 突然 ひとつの群を見た
  黄金色の水仙の群だった

自らを「雲」になぞらえるだけでなく第二行目の「雲」へ現在形を使用することから
、ワーズワースが「雲のようにさまよう」孤独に誇りを持っていることが分かる。彼
の孤独は、世界の上を超然と放浪しながら、世界を見おろすことを許す。そして、こ
の孤独が、「群」と対比される。もちろん、「群」とは群衆ではなくて、水仙の咲き
誇る群を指す。このあと、水仙の描写が続くが、視点が変化し、「私」が空から降り
て、「水仙」と同じ地平に立つ、あるいは、「私」が地平に立って「水仙」が空に輝
く「星」となる。

  詩人ならば 必ず 楽しくなるに違いな   い
  そんなにも楽しげな仲間と一緒にいるの   なら
  私は見つめたーーただ見つめたーーしか   しほどんど考えなかった
  どれほどの富を その光景が 私にもた   らしたかを

「見つめれば、受容できていた」というのは、あまりにも単純すぎるが、それは、ワ
ーズワースの詩学の重要な点である。27最終連は、その受容の豊かさに気づく。

  というのは しばしば長椅子に横たわっ   て
  虚ろな 物思いの気分に浸っている時
  水仙たちがあの内なる目に輝くのだ
  あの孤独の至福である目に
  すると 私の心が喜びで満たされ
  水仙とともに 踊る

ここで、記憶を機能させているのは、孤独である。ワーズワースにとって、孤独とは
、過去の豊かさを現在にもたらし、現在を豊かにするものでであり、それゆえに、喜
びに他ならない。換言すれば、孤独こそが過去を蘇生しつつ深化させるのだ。

 ひるがえって、立原道造の場合、過去を豊かに現在化できない未熟さや、未来への
ヴィジョンの欠落が、彼を死なしたと言うのは、極言だろう。同様に、砂糖や甘味へ
の嗜好が彼を死に追いやったと言うのは、あまりにも、食養的発想だろう。しかし、
先に引用した立原の詩句を読み直せば分かるとおり、「確かに知れ」や「投げ与えよ
う」といった、いかにも翻訳調の言葉遣いが、これらの命令の不確かさを、あらかじ
め、言い当てている。もちろん、命令の背後に潜む、彼の強い決意を疑うわけではな
い。彼の後期の作品の中で、西欧的な自我意識が日本の風土に根付く可能性というよ
りも、伝統的な日本の引きずる「自我」意識を近代化する可能性を示しながら、可能
性のままで終わってしまったことを惜しんでいるに過ぎない。彼自身が脱出しようと
していたのは、杉浦明平の言う江戸=東京下町の文化のみならず、28日本=さびしさ
の文化でもあったろう。しかし、実際に彼が「ひろいひろい水平線のあちらへ」目を
向ければ、当時、そこには戦火しかなかった。彼が死んだ一九三九年は、既に日中戦
争が長引き、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発し、また、二年後には太平洋戦争
が控えていた。

 日本の歴史に「戦後」は存在しない。そして、戦後がなければ、戦後詩も現代詩も
ない。もちろん、ひとつの突出としての敗戦が、五○年前にあった。しかし、民族と
しての心情や性格がその本質的なところで、どれほど変容したと言えようか。あるい
は、変容するべく、努力がなされただろうか。吉本隆明が短いエッセイで、壷井繁治
や岡本閏という詩人が代表する「日本的庶民意識」が戦前も戦後も変わっていないと
一九五五年に指摘したが、29いかに変えるかは、勿論、吉本も含め、わたしたちの問
題である。そして、これは、一九九五年六月の「不戦決議」の文面そのものやこれを
めぐる国会論議へ言及するまでもなく、今なお、解決していない。
 先行する近代詩との連続性を無視すれば、現代詩はない。しかし、単なる連続なら
ば、それは、現代詩ではない。もちろん、詩人は、社会学者でも哲学者でもないので
、「大衆の中の孤独」や「近代的な自我」といったテーマで論陣を張る必要はない。
しかし、「さびしさ」や「寂寥」を詩のテーマや素材とする限り、日本における「さ
びしさ」を考察する義務と責任がある。そして、たとえば、つぎのような指摘にも耳
を傾ける必要があると思われる。

  日本と日本人は、未来に一体どんな目標  を設定していいのか皆目わからない
まま  に、ただ毎日毎日をあくせくと暮らして  いる。その結果、経済大国にな
ることは  できた。しかし物質的な繁栄だけで、国  家も個人もよろこびに満た
されるもので  はない。日本社会に最も欠けるものは理  想であり、日本人の行
動に欠けるものは  理想主義である。30

その理想主義を何と定めるかは言わない。しかし、この理想主義という言葉が前提と
するはずの、過去を批判的に継承した上での未来へのヴィジョンの必要性と、人類の
未来を信ずる心とは、詩作する上で、特に日本で詩作する上で、重要な点であろう。
さもなければ、いつまでも、さびしさだけが新鮮である国の心情におもねているほか
ないだろう。詩人は、本来、言語活動において未来を切り開く者であるべきだから。

注
  1 大野晋他編『古語辞典』岩波書店、一九七四、五六九頁。
  2 新村出編『広辞苑』岩波書店、一九六九、九○○頁。なお、「さびしい」と「
さみしい」のあいだに、本質的な差異は認められない。
  3 若山喜志子選『若山牧水歌集』(一九三六)岩波文庫、一九九三、一三頁。
  4 清岡卓行編『金子光晴詩集』岩波文庫、一九九一、一八七ー二○一頁。
  5 清岡卓行「あとがき」『金子光晴詩集』四八○頁。
  6 久保田正文編『新編啄木歌集』岩波文庫、一九九三、二八頁。
  7 『新編啄木歌集』一三七頁。
  8 田中美知太郎編『プラトンI』世界古典文学全集一四、筑摩書房、一九六四、
一一七ー六六頁。
  9 土井健郎『甘えの構造』弘文堂、一九七一、一六三頁など。
10 こうした日本人的な心理のメカニズムは、ほかにも、「かわいそう」という言葉
で確認できる。この言葉を発する人は、じぶんの立場が揺るがないことを知っている。
11 「はじめてのものに」や「夢のあと」(杉浦明平編『立原道造詩集』岩波文庫、
一九八八、一四頁、二六○頁)などを参照のこと。
12 『立原道造詩集』三六四頁。
13 『立原道造詩集』三九八頁。
14 ライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』星野慎一訳、旺文社文庫、一九六九
、二二ー二三頁。
15 桑原武雄他編『定本伊東静雄全集』人文書院、一九七一、一八頁。
16 『定本伊東静雄全集』三○頁。
17 『定本伊東静雄全集』四四ー四五頁。
18 『定本伊東静雄全集』六六頁。
19 『定本伊東静雄全集』六七頁。
20 『立原道造詩集』三三○頁。
21 『立原道造詩集』三一三頁。
22 『立原道造詩集』三一四頁。
23 『立原道造詩集』三一六頁。
24 作田啓一『恥の文化再考』筑摩書房、一九六七、一五ー一七頁。
25 『立原道造詩集』四○五ー一三頁。
26 平井正穂編『イギリス名詩選』岩波文庫、一九九○、一六○ー一六三頁。訳は、
筆者が行った。
27 「発想の転換をこそ」(『イギリス名詩選』、一五二ー一五七頁)の最終行を参照。
28 杉浦明平「解説」『立原道造詩集』、四一九頁。
29 吉本隆明「前世代の詩人たちーー壷井・岡本の評価について」『現代詩論体系二
』思潮社、一九六五、三三ー四五頁。
30  藤田榮一『アメリカの深層を読む』丸善ライブラリー、一九九二、一四四頁。

アメリカン・モダニズムと女性像: スティーヴンズ、ウィリアムズ、パウンド、エリオット


聖徳大学総合研究所 第50回研究会
(1997年9月)

きょうは、お招き戴き、どうも有り難うございます。
 聖徳大学総合研究所の『論叢』を拝見していまして、この研究所が目指している、専門を越えた学問の総合化という目標に共感します。特に今日は、この研究所がそのモットーとして明言はしていませんが、研究所として根底に維持しているはずの大前提、つまり、学問は直感的な挑戦であり、創造であり、しかも、地べたを這うような辛い努力であるという大前提に、いわば、甘えさせてもらって、これまでぼくが考えてきた「モダニズム詩における女性像」に関して、その途中経過報告を聞いていただければ幸いです。
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1アメリカン・モダニスムの起源
1)アメリカの国際的な性格
アメリカは国家として、19世紀のほとんどを、熱烈なナショナリズムとセクショナリズムで、国土の膨張と国内産業の整備、前近代的な奴隷制度の克服等に費やした。1823年には、有名なモンロー宣言を発している。もちろん、それ以前同様に、19世紀を通じて、世界中の民族や国家から移民を受け入れていたが、アメリカが国際的な関係に入っていくのは、遅れて帝国主義戦争に参加した時からであり、また、指導的な地位を手に入れ始めるのは、第1次世界大戦への参加、および、その後の戦後処理の会議に参加してからである。
第28代大統領ウィルソンがパリ・ヴェルサイユ会議で提案した内容は、一見すると矛盾している。なぜなら、一方で民族の独自性を認めながら、他方ではいわば人類の統一もうたっているためだ。つまり、民族自決権の尊重をうたいながら、国際連盟(the League of Nations)を提唱する。しかし、この矛盾は、アメリカ合衆国の理念と仕組みに照らして考えれば、すぐに、了解できよう。アメリカの理念とは、すべてのコインに打ち刻まれている「e pluribus unum」である。これは、ラテン語であるが、「多から一へ」とか「多様性のなかの統一」などと訳されている。アメリカ合衆国は、独立以前から多様な民族を移民として受け入れながらも、統一された政治体としてのアメリカを形成しようとした。また、合衆国の仕組みとは、各州が個別の法律体系を持ちながら合衆国連邦憲法を共有し、また、連邦政府に対して、外交権、防衛権と貨幣発行権を委ねることである。したがって、各民族が自治権を行使しながら、全体としては、ひとつの理念を共有する国際連盟とは、アメリカ合衆国の世界版にすぎなかった。
ただし、アメリカの国会は、パリ条約を批准せず、とりわけ、国際連盟に反対を続け、ウィルソン大統領は、国際連盟に関する国内キャンペーンの最中に倒れて身体が麻痺し、直後の大統領選挙で選ばれたオハイオ州出身の第29代大統領ハーディングは、ドイツと単独講和を結び、国際連盟には加入しないという選択を行った。ちなみに、 "U.S.A." =United States of Americaが単数扱いになったのは、南北戦争以後のことであり、それ以前は、複数扱いだったという。これは、南北戦争によって初めて、国家としてのアメリカが成立したことを意味するのだろう。

2)フランス象徴主義:モダニズム以前(1)
以下、トパンによりながら説明すると、アメリカが帝国主義戦争に参加し始める以前から、詩の歴史における自意識は、新しい段階に入っていた。代表的な詩人としては、フランスのボードレール、マラルメ、ヴァレリーなどがあげられよう。ただし、フランス象徴主義の起源のひとつは、アメリカの詩人E・A・ポーにあるというのが定説になっているが、こうした詩人を生む点が、アメリカの不思議なところである。
ボードレールは、堕落した男を演じる詩人であった。彼は、悪徳の町パリの売春宿で詩を書いたと言われる。ボードレール以前の主流であったロマン主義の課題は、自然や芸術、あるいは大文字の「美」から、あるひとつの美を、言語表現の中にどうやって写し取るかにあった。しかし、象徴主義ないしボードレールの言語表現は、醜いものから美を引き出して、その時代の表面的な複雑さを解決し、新しい、調和した詩的言語に写し取ることにあった。それは、別の観点から言うと、詩作品そのものの中に詩的想像という神秘的な出来事を露にしたいという美学的な衝動でもあった。また、既に、自由韻文という実験が試みられていたが、これが後のイマジズムの原則となった。

3)イマジズム:モダニズム以前(2)
1914年3月に、『イマジストたち』(Des Imagistes)と題する1巻本の詩集が出版された。若い詩人たちの作品を集めたものだが、この年を含めて、1917年まで4回刊行される。とりわけ、15年版は、後で紹介するが、彼らの宣言が掲載されていて非常に重要である。時を経て、1930年には、第5巻目が刊行された。イマジストとしては、少なくとも7人の詩人を数えるが、そのうち4人がアメリカ人(Ezra Pound, Hilda Doolittle, Gould Fletcher, Amy Lowell)、3人がイギリス人(Richard Aldington, F.S.Flint, D.H.Lawrence)であった。
このイマジズムの運動は、逆説に溢れている。まず、刊行された詩集の中の作品が必ずしも、彼らのイマジスト宣言を体現するとは限らない。また、D・H・ローレンスの作品は、イマジストとジョージアンと両方の詩集に掲載されている。さらには、エズラ・パウンドは、イマジズムを創立した詩人であるが、1年目に、イマジズムを批判しそこを去っている。
もっとも矛盾をはらんでいる点は、「イメジ」をめぐる定義が無数にあり、かつ、矛盾し合うものもあることだろう。イマジストたちは、「イメジ」を求めて、フランス象徴詩、中国の漢詩、日本の俳句などに学び、そのいくつかを翻案の形で作品としているが、すべてがある統一された理論のもとに作品化されたわけではない。さらに不幸な逆説は、いわゆるイマジストたちの作品が文学の傑作としては評価しがたいことである。
歴史的に言えば、T・E・ヒューム(T.E.Hulme: 1883-1917)がいわば、理論的な先駆者である。彼は、ジョージアン風の詩作へ反発して、新しい感受性を詩の中に求め、当時の立体派などを高く評価した。ただし、本人は、詩人と言うよりも、哲学者として評価されたがっていた。貨物船で北アメリカへ旅して、その広大な風景に心打たれるというエピソードが残っている。「秋」("Autumn")や「都市の夕暮れ」("A City Sunset")をじぶんの理論的な実践作品として例示しているが、彼のころはまだ、イマジズムの名前は使われていない。
ヒュームは、これまでの近代西欧思想に、人間の無限の可能性を信じる「ロマン主義」と「ヒューマニズム」をみて、これを批判し、むしろ、人間の不完全性、限定性に目覚め、「人間的な価値の領域」と「倫理的・宗教的な価値の領域」との絶対的な区別を知ることが時代の急務であると主張した。(『世界大百科事典』)
イマジズムにとっての重大な契機は、1909年4月、当時24歳でロンドンに到着したばかりのエズラ・パウンドが、ヒュームと出会ったことである。このエズラ・パウンドは、既に、ヒュームと同じようなことを考えていた。1908年10月21日付けのウィリアム・カーロス・ウィリアムズに宛てた手紙の中で、次の4点を主張している。(Witemeyer 11)

(1)わたしが見るがままに、事物を描くこと。
(2)美しいこと。
(3)教訓ではないこと。
(4)以上のことをうまくやるように、そして、手短にやるようにと繰り返し、他の人に勧めるべきだ。独自性が大切なことは、言うに及ばない。

T・E・ヒュームは、第1次世界大戦に参戦し1917年に戦死するので、この後、パウンドが指導的な役割を担い、イギリスの『エゴイスト』(The Egoist)やアメリカの『ポエトリ』(Poetry)という2つの詩誌に作品を発表し、イマジスト・グループ、および、その機関誌を主宰してゆくことになる。ただし、先程述べたように、パウンドは、1年後にはこのグループを去り、彼の後を襲ったのがエイミー・ローウェル である。このために、しばしば揶揄も込めて、彼らは、「イマジスト」ではなくて「エイミジスト」と呼ばれる。
イマジストの原則は「イマジストによる幾つかのしてはいけないこと」("A Few Don'ts by An Imagiste")と題して、エズラ・パウンドによって示された。これが、先程も述べた15年版に掲載されている。(Jones 130-36)そこに示された原則を以下に羅列すると、
(1)新しい展望、新しい開示法:「イメジ」を言語化すること。万巻の書を書くよりも、一生を賭けて一つのイメジを示す方がよい。
(2)新しい聴覚、新しい言い方:自由韻律であること。
(3)詩人と対象との新しい関係:見られる事物そのものを信頼し、その表現力を引き出すこと。
(4)日常言語を使用しながら厳密に言うこと。
(5)テーマを選ぶに際して全く自由であること。

これらの原則をフランス象徴主義と比較してみれば、類似する点としては、叙事詩が失われた時代、宗教的な信仰の失われた時代にあって、ともに伝統的なテーマを喪失していること、それでもなお、詩的言語の再創造をめざしたことである。異なる点としては、象徴主義が純粋詩を目指したのに対して、イマジズムは、具象の詩を目指したことであろう。これは、たぶん、シンボリズムが音楽に近づこうとし、イマジズムは絵画にその発想をえている点から来る違いであろう。また、シンボリズムは、目に見えないものの喚起力を信頼したが、イマジズムは、目に見えるものの具象力を信頼する。こうした違いの根底には、大陸的・フランス的なものとアングロ・サクソン的なものとの差があるのかもしれない。
T・S・エリオットは、1953年のあるエッセイのなかで、イマジズムを現代詩の出発点だと評価している。(Eliot 58-59)もともと、エズラ・パウンドとウィリアム・カーロス・ウィリアムズは、イマジストだったし、ウォレス・スティーヴンズもイマジズムからなにがしかのことを学んでいる。そして、これは、エリオット自身にも当てはまる。1917年と記録されている文学書評は、「イマジストの作品は、わたしたちを希望で満たす。最良の詩が書かれうる形式を、イマジズムが約束しているように思われるためだ」と指摘している。(TLS Jan. 11, 1917; Jones 14)しかし、こうした高い評価は、個別の作品に与えられたものではないことに注意しておく必要があるだろう。
また、イマジズムは、主観の除去によって、対象と詩人との距離を拡大する。それゆえに、書く者と書かれる物との19世紀的な支配・被支配の関係を絶ち切るわけで、これは、ある意味では、近代科学がもたらした、客観性を信じる人間対事物の関係を究極へ運び去る役割を果たす。究極へとは、人類の主観の最後の拠り所と思われる文学においてさえ、近代科学にすすんで敗北したように見えるためだが。
しかし、この「主観の除去」とは、大いなる虚構である。言葉である限り、どのような装いをとろうとも、「ある主観」によって制御されていることは隠しようのない事実であるからだ。さらに言うならば、「主観の除去」というスローガンは、虚構というよりも、幻想であろう。むしろ、括弧に入れられた絶対(的な)主観が、見え隠れするように思える。したがって、当時の歴史的な役割とは別に、今日の時点に立って、歴史的に振り返るならば、イマジズムは、危険な役割もまた担っていると言えよう。なぜならば、客観性を信じさせ、事物への人間的な関係を遮断することで、逆に、目に見えない支配層の、事物だけでなく人間にさえも及ぶ支配力を強化するために働く恐れがあるから。むしろ問うべきは、イメジが氾濫し、言葉が消費されるためだけに生みだされる現代の悲劇的な事態を、いかにして、わたしたちは、克服できるのであろうか。

2アメリカン・モダニスムの特徴
まず、モダニスム("Modernism")の語源に関してであるが、よく知られているはずですが、もともと、ラテン語で"Modernus"という言葉は、5世紀後半、キリスト教が公認された当時における現在を、ローマ的で異教的な過去から区別するために用いられたという。それ以降、「モダン」という言葉は、12世紀カール大帝時代、ルネッサンス、17世紀フランスなど、自らを古いものから新しいものへの移行の結果として見做すような時代意識を意味した。したがって、ある意味で、モダニズムの定義は、モダニズムではないものとの関係でなされるべきかもしれない。(Howe 13)この意味で、ロマン主義者もまたモダニストと言える。彼らは、近代科学から力を得て、認識の無限の進歩と社会および道徳の改善経の無限の発展を信じていた。このロマン主義の中から、自らをいかなる特定の歴史的結びつきからも解き放とうとするラディカルな近代性の意識が生じる。これは、「新しさ」を重視する立場であり、オリジナリティの神話は、ここに生まれる。(ハーバーマス17ー18頁)
さて、今ここで言うアメリカン・モダニズムの時代とは、冒頭に述べたアメリカの国際的な力の高まりを背景にして、文学史上初めて、アメリカ人たちが世界文学の先頭に立った時代である。それは、政治・経済から言えば、帝国主義戦争の時代であり、世界認識から言えば、古い有機的な世界観が崩壊した時代であった。文学的には、ロマン主義が堕落して安易な自己表現へ陥っており、それに対する反動として、第1次世界大戦から20年代にかけて起こったモダニズムが、文学蘇生の運動を展開したと言えよう。それは、いかにもアメリカ的な運動であった。
彼らアメリカン・モダニストのスローガンは、「新しくすること」("make it new")であり、また、イマジズムの唱えた事物の具象性・自由詩の原則・即物的表現を支持する。あるいは、言語における革命をめざし、現代社会に相応しい新しい言葉を探求してゆく。当初は特に、ホイットマンを拒否し、厳密な形式を尊重したので、言葉のマンネリズムに陥り、自己解体する危険をはらんでいた。ただし、彼らが集団として行動したわけではない。あくまでも個人の創作活動を重んじながら、結果として、共通の主張を行い、世界文学をリードしたのである。
アメリカン・モダニズムの特徴とは何であろうか。
まず第1の特徴として、伝統主義をあげるべきだろう。モダニストたちは、文学史、とりわけ、詩の歴史の中でじぶんの占める位置とは何かについて、すざまじいまでの自意識を持つ。だからこそ、反伝統主義さえも標榜する。
たとえば、ウォレス・スティーヴンズは、詩論らしい詩論は書いていないが、詩作品の中で詩論を展開したと言われるほど難解で抽象的な作品が多い。その彼の初期の「白鳥への揶揄」("Invective against Swans")(Stevens 4)という作品では、たとえば、白鳥を揶揄するが、もともと白鳥とは、イギリス詩の伝統の中では美しいものとして描かれてきていた。これは、彼があからさまに伝統への反逆を宣言したものと考えてよいだろう。ウィリアム・カーロス・ウィリアムズは、主流であるイギリス詩に対抗して、「アメリカニズム:アメリカ語による詩作」を生涯の仕事とする。エズラ・パウンドは、「古いものこそ新しい」をスローガンとして、詩作を続ける。彼のライフ・ワークである『キャントーズ』(Cantos)冒頭の作品は、ホメロスのギリシャ長編叙事詩『オデュッセイア』の翻案であった。また、エリオットは、エッセイ「伝統と個人の才能」("Tradition and the Individual Talent")で、25歳を過ぎて詩作を続けようとする者は、自国の文学史だけでなく、ギリシャ・ローマ以来の詩の伝統を念頭に置かねばならないと述べている。(エリオット9頁)
第2の特徴としては、誇大妄想狂的な詩人観がある。これは、文学への絶対的な信頼、すなわち、詩人には天命・義務があるという信念にもとづいて、詩が時代を変え、人類を救済するという確信を持つ。彼らモダニストたちは、時代状況としての全体性の喪失のなかで、なお、「文学」を文化変革の唯一の手段として信じていた。当時の科学的な発見(アインシュタインの相対性理論、ハイゼンベルグの不確定性理論、ボーアの量子力学など)や技術の発達は、これまでの時間と空間、主観と客観、物質とエネルギーなどに関する伝統的な世界観を揺るがし、結果として、より厳密で事実に即した科学的な記述以外は、なにものも説明しないといった通説が20世紀に流布するが、アメリカン・モダニストたちは断固として、これに反対した。
第3には、芸術家の制作物をユニークで象徴的で想像力に富んだ「作品」と見做す点もまた、モダニズムの特徴としてあげるべきだろう。(フォスター5頁)モダニズムは、もともと、啓蒙の物語、精神の弁証法、意味の解釈学、理性的主体の開放、人類の歴史的発展などを意味する「メタ言説」、ないしは、「大きな物語」を前提とするが、アメリカン・モダニストの時代とは、「知」の修得が精神や人格、教養の形成と同義であると信じた最後の時代でもあった。
第4には、大衆への嫌悪感であろう。モダニストたちは、暗黙裡に一般大衆、すなわち、芸術や美を理解しない者を共通の敵とし、激しい嫌悪感を示す。この嫌悪感は、技法上の特徴からも確かめられる。文学史の伝統と関係する詩的技法であるが、彼らは、これまでの詩の歴史と伝統の厚みを作品の中に取り込む。具体的には、先行する大詩人たちの作品へ言及したり、その言葉を応用したり、直接、引用したりして、読者に知的な背景がないと作品が理解しづらい印象を与える。また、仮面やペルソナを多用する。彼らにとって、詩作品や詩人たちは偉大なのであり、それに比して、文学を理解しない者はなんらの存在価値もなかった。

3アメリカン・モダニストたちとヨーロッパとの関係において
ヨーロッパとの関係は、それぞれの詩人たちの詩学に大きく関わっている。
ウォレス・スティーヴンズ(Wallace Stevens: 1879-1955)は、アメリカに留まったまま死ぬ。彼は、保険会社に事務弁護士として生涯勤務し、せいぜいが、東部から西部へ船で旅行する程度であった。ただし、フランスには激しい憧れを持っていたことは分かっている。
ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(William Carlos Williams: 1883-1963)は、幼少時代スイスに住んだことがあるが、彼もまた、ほぼアメリカに留まる。留まりつつ、「アメリカ語」を目指した。彼は、ニュー・ジャージー州ラザフォードで医者として生涯を過ごす。
エズラ・パウンド(Ezra Pound: 1885-1972)は、アメリカからイギリスへ渡り、その後イタリアで反米ラジオ放送を行なって、第2次世界大戦後、反逆罪に問われる。いったん、アメリカの病院に収容されるも、のちに釈免されて、再びイタリアに渡り、そこで生涯を閉じる。彼は、詩人以外であったことがない。彼の目指していたのは、詩の源泉に遡る「世界詩」であった。
T・S・エリオット(T.S.Eliot: 1888-1965)は、アメリカからヨーロッパ大陸を経てイギリスに渡って、そのままロンドンに留まり、後には、イギリス国教会に改宗し、イギリスに帰化する。自身の定義によれば、「政治的には王党派、宗教的にはアングリカン」である。彼もまた詩人であろうが、教員、銀行家などの職業に就いている。後には、「フェイバー」という出版社の副社長も勤めた。エリオットは、この4人の中ではもっとも若いが、そのためか、かえって、イマジズム的なものへ依存する傾向があり、とりわけ、彼の詩的な理論として有名な「自己の消去」(impersonality)という命題は、明らかに、イマジズム宣言を受けている。
この4人のアメリカン・モダニストがいかに女性を描いたかを検討する前に、簡単に、英詩の中で、女性はどのように描かれてきたかを概観しよう。

4英詩のなかの女性像
「女」("woman")の語源は、OEDによれば、「妻」("wife")を意味した言葉に、「人」の意味の"man"が付加されてできたという。しかし、現代のフェミニズム的な考え方も念頭に起きながら、「女」("woman")を解読すれば、「男のための子宮」("womb for man")、「男への苦悩」("woe for man")、あるいは、「男無しに生きる」("w/o man= without man")といった解釈もできよう。
女の属性として、幼女、少女、娘、婦人、夫人=妻、母、老女などがあるだろうが、詩の中で「女」としてうたわれたのは、シェイクスピア時代は、結婚前の娘が主であり、ロマン主義時代は、これに加えて、少女がうたわれ、また、自由恋愛しようよといった内容の作品も、バイロンやシェリーによって書かれた。その基本は、恋愛対象の女性であった。モダニズムの時代は、この対象に、婦人(Lady)や夫人=他人の妻、老女などが加わる。
ある意味では、シェイクスピアの頃のほうが、女を人間的に扱っているような印象を受ける。ただし、もちろん、女が男と対等で等身大の姿を現すというよりは、いい意味でも悪い意味でも、男にとって欲望の対象であったことは確かだが。詩を捧げる相手はみな、美しい女と相場が決まっていたが、そうした女に対して、主として、おまえの美しさを後世に残すためにも子どもを作った方がいい、あるいは、美しい時期は短いといった論理を用いて説得しながら、互いに愛し合おうと持ちかける。
ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare: 1564-1616)の「ソネット」(Sonnet)12番では、子どもを産むことが唯一、美しさを破滅させる時間に対抗できる手だてだとうたう。

君の美しさも 危ぶまれる
やがては 君も 時間の破滅のなかへ行かねばならぬ
甘く美しいものすべてが 衰えて
ほかのまた美しいものが成長する早さで 死んで行くから
時間という草刈り鎌に対抗する手だては ただ
子孫 君が刈り取られても 子孫だけが 時間に対抗できる

Then of thy beauty do I question make,
That thou among the wastes of time must go,
Since sweets and beauties do themselves forsake
And die as fast as they see others grow;
And nothing ユgainst Timeユs scythe can make defense
Save breed, to brave him when he takes thee hence.     (NAP 235)

ヘリック(Robert Herick: 1591-1674))もまた、美を奪う時間を理由にして説得を試みる。

だからはにかむのは止めて じぶんの青春を生き
 まだ間に合ううちに 結婚するがいい
だって いったん 花の盛りを失えば
 永久に 待ちぼうけ

Then be not coy, but use your time,
And, while ye may, go marry;
For, having lost but once your prime,
you may forever tarry. ("To the Virgins, to Make Much of Time" NAP 320)

マーヴェル(Andrew Marvell: 1621-1678)もまた「恥じらう恋人へ」("To His Coy Mistress")で、「おれは、おまえをノアの大洪水よりも前から愛し、最後の審判にまぎわまでも愛し続けよう。しかし、おれの後ろからは、時間が恐ろしげに接近し、おまえの命を奪おうとする。だから、まだ、おまえが若いうちに、愛し合おうよ」と恋人にうたいかける。(NAP 435-36)
こうした女性のうたい方と説得の仕方は、実は、ギリシャの頃からあった。次のは、プラトン(Plato: 427?-?347 B.C.)の作品だと言われているが、17世紀のイギリス詩は、この路線を引き継いでいたと言えよう。

りんご

おまえにりんごをあげよう おれを愛せるかい?
受け取れよ 代わりにおまえの少女らしさを おくれ
もしもいやだというのなら それでも
りんごを受け取って よく見てごらん
そして どのくらいその美しさがもつのか考えてごらん

I've tossed an apple to you; if you can love me,
take it. Give me your girlhood in exchange.
If you think what I hope you wonユt, though,
take it, look at it:
consider how briefly its beauty is going to last.         (Nims 54)

荒木英世によれば、古代ギリシア社会での「りんご」は、不死を表していたという。その「りんご」でさえ、ほんの短いあいだしか美しくないのだから、いわんや、「おまえの少女らしさ」をやとほのめかしている。人間にとって時間の別名でもある「老い」はいわば、女の弱みであり、男にとっての攻撃の武器でもあり、また、説得の材料でもあった。
イギリス・ロマン主義者たちの作品をここで引用しないが、それぞれの作品を読みながら、ワーズワース、コールリッジ、シェリー、キーツと名をあげて、彼らの女性観に関して共通点を見出すのは意外と難しい。たとえば、コールリッジは、女をうたった傑作を残していない。シェリーは、バイロンと同じく、女を恋愛対象とみなす。ただ、ロマン主義者たちが女性に美を見いだしていることは間違いないし、また、ある種の憧れを持っていたという指摘も誤っていないだろうと思われる。とりわけワーズワースやキーツを念頭に置きながら言うと、女を自然の事物に昇華したり、星や花に喩えたり、恐ろしいものとしての美、人間を死にさえ追いやるような美、その体現としての女という描き方をしている。

ここで、フェミニズムが好む「セックス」、「ジェンダー」および「欲望」という概念を導入してみよう。「セックス」というのは、簡単に言えば、生まれつきの性であり、「ジェンダー」とは、この生まれつきの性に加わる文化的・社会的・歴史的な刻印や要請、ないし、それらを再生する装置、システムを意味するが、そして「欲望」は、そのどちらにも関わるが、(Butler 7, 22)シェイクスピアの頃は、「女」は、「欲望」の対象であり、男とは違う「セックス」として扱われていた。もう少し、フェミニズム的に言うと、女が男の「欲望」の対象でしかあり得ないような育て方を、当時の社会が、男女両方に対して行ったということだろう。シェイクスピアの頃と比較しつつ、歴史的には後からやってきた運動体だと言うことを考慮すれば、ロマン主義は、見た目ほど単純でも無知でもない。ロマン主義者たちは、女を世俗的な「欲望」の対象から切り離して、詩人たちの上に君臨する姿で女を審美的に救済するように見せつつ、実は、女から社会性を剥奪していたと言えよう。
20世紀の前半はまだ、フェミニズムが見えない頃だったが、しかし、その予兆はあった。当時のアメリカには、「フラッパー」ないし「新しい女」という新しいタイプの女たちが出現している。「フラッパー」(flapper)とは、自由を求めて行動や服装に突飛なことをした、生意気な現代娘、若い女性たちであり、「新しい女」(a new woman)とは、因習を排斥し、男女同権を求めた女たちである。しかし、自由な自己表現や個人主義を主張したはずのモダニストたちは、けっして、こうした主張を女たちにまで広げようとしなかった。むしろ、パウンド、ウィリアムズ、エリオットは、ヘミングウェイやフッツジェラルドと同様に、こうした女性たちがアメリカの堕落の象徴であるとして、弾劾している。(NAAL 982-29)
モダニストたちは、現実社会のなかで次第に等身大の姿として現れ始める女に対して、扱いかねるという意味での困惑と、恐れにも似た感情とをない交ぜにしながら、なお、どこかしら、伝統的な女性像への憧れも保っていた。

5アメリカン・モダニズムと女性像
アメリカン・モダニストたちが女性像に関して、何を新しくしたのだろうか。あるいは、彼らの作品のなかで、詩人と対象との新しい関係が実現しているのだろうか?
1)ウォレス・スティーヴンズ:ブルジョワジーの夢と女性蔑視
スティーヴンズは、完璧なアメリカ的マッチョであった。その意味する内容は、家を建て家族を養うのが男子一生の仕事であり、詩など書くのは女めしいということだ。こうした人生観は、彼の父が教えこんだものだが、これに縛られながら、しかし、ヨーロッパ、特に、フランスへの憧れとも劣等感とも言いがたい奇妙なコンプレックスを抱いて、スティーヴンズは、定職に就いてからやっと、若い頃に望みつつ父の言葉で中断していた詩作を再開した。彼の体格は、押し出しがよいと言うよりも、むしろ太っていて、本人の勤め先は保険会社なのに、健康チェックに毎年引っかかって、生命保険に入れなかった。彼が第一詩集を出したのは、1923年、43歳の時だ。
次に引用する「日曜の朝」("Sunday Morning," 1915)は、こうした伝記上の事実を踏まえて、宗教や女性像に対する2律背反な態度を示す。あるいは、「女」とは、スティーヴンズにとって詩そおものだったのかもしれない。

日曜日の朝


部屋着の満足さ 遅い
コーヒーとオレンジのある 日の当たる椅子
コカトーの緑の自由
それらが絨毯のうえで混じりあい 雲散霧消する
いにしえの犠牲の聖なる沈黙
彼女の見るのは わずかな夢であり 彼女が感じるのは 暗く
侵入する あの古代の破滅である
水明かりのなか 静寂が暗くなる
舌を刺すオレンジと 明るい緑の羽も
属するのは 死者たちのある行進だろう
広い水を音もなく渡り行くこと
この日は 音のない 広い水のようであり
静けさが増す 彼女の夢見る足もとが過ぎゆくように
海を越えて 静かなパレスティナへ
あの血と墓地の領域のほうへ

Complacencies of the peignoir, and late
Coffee and oranges in a sunny chair,
And the green freedom of a cockatoo
upon a rug mingle to dissipate
The holy hush of ancient sacrifice.
She dreams a little, and she feels the dark
Encroachment of that old catastrophe,
As a calm darkens among water-lights.
The pungent oranges and bright, green wings
Seem things in some procession of the dead,
Winding across wide water, without sound.
The day is like wide water, without sound,
Stilled for the passing of her dreaming feet
Over the seas, to silent Palestine,
Dominion of the blood and sepulchre.            (NAP 1151)

ここに姿を見せているのは、日曜日の朝、教会に行かずにいながら宗教的な雰囲気を愛する富裕な女であり、また、救済を信じていないのに、「マタイによる福音書」14章25節に描かれた、水のうえを渡るキリストへと自己同化して行く自我である。
「お高くとまった老クリスチャン婦人」("A High-Toned Old Christian Woman," 1923: NAAL 1145)もまた、奇妙な作品である。表面的には、2項対立の提示によって、その中間が真理であると訴えているように見える。しかし、タイトルで「女」(Woman)と言い、本文中で「マダム」(madame)と言い直すように、相手に面と向かえば態度や言葉使いを変える姿を、はしなくも暴露している。作品を振り返っても、女の言葉が無いし、どこかしら遠巻きにして女を眺めつつ呼びかけて、文学の至高性を訴えているが、しかし、女に直に触れはしない。だいいち、なぜ、老クリスチャン婦人に詩の大切さを説教したいのか理解しがたい。しかも、説得するため言及する例のひとつが、たとえば、信仰の情熱を高めようと自らを鞭打つ修業僧であった。そこには、女への恐れと同時に、蔑視を読みとってよいだろう。
伝記を見ると、ウォレス・スティーヴンズは、非常に慎重で、そのぶん、臆病な人間ではないかと思わせる。彼は、じぶんをグルメと称して、毎日午後3時になると事務所の地下室に降りていって、コーヒーをいれた。いつも、ピン札をもって歩く男でもあった。彼はまた、地道にこつこつとお金を貯めて、アメリカ合衆国中がまだ大恐慌から回復していなかった1932年に、現金で家屋敷を購入している。じぶんが詩を書いていることを同僚に隠し続けた。

2)ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ:他者としての女
ウィリアムズの「若い主婦」("The Young Housewife," 1916)は、あからさまに男の欲望を表現する。

若い主婦

午前10時 若い主婦が
ネグリジェ姿で 動き回るのは
彼女の夫の家 木製の壁の背後
わたしは 孤独に車で通り過ぎる

それから再び 彼女は 縁石のところに出て
氷屋や魚屋を呼ぶ その姿は
恥かしげで コルセットもせずに 後れ毛を
押し込んでいる わたしは 彼女を
落ち葉にたとえよう

わたしの車の 静かな車輪が
ぱちぱちと音たてて 乾いた葉を
踏む わたしは 頭を下げて微笑み 通り過ぎる

At ten A.M. the young housewife
moves about in negligee behind
the wooden walls of her husbandユs house.
I pass solitary in my car.

Then again she comes to the curb
to call the ice-man, fish-man, and stands
shy, uncorseted, tucking in
stray ends of hair, and I compare her
to a fallen leaf.

The noiseless wheels of my car
rush with a crackling sound over
dried leaves as I bow and pass smiling.        (NAAL 1166)

「午前10時」に「木製の壁の背後」を透視する語り手には、ネグリジェを着て動き回る女の姿が見えている。また、女の「夫」へわざわざ言及する点に、抑圧された嫉妬を見て取ってよいだろう。相手が結婚している女であって見れば、彼は、「孤独に車で通り過ぎる」ほか無い。それなのに、「それから再び」彼女を見るために現場に戻り、「コルセットもせずに」と言うとおり、彼はまた、透視を行う。しかも今回は、彼女の裸の身体を透視している。
彼は、比喩を比喩として意識化し、そのうえで、「彼女を/枯れ葉にたとえよう」とわざわざ言う。それは、比喩することへの意識的な距離感を保つことが必要だったのだろう。透視=視姦=欲望であるように、女=落ち葉=枯れ葉とは、欲望の間接表現でもある。すなわち、落ち葉にたとえた後に、それを踏みしだく行為は、語り手の欲望を表現していると言えよう。なぜなら、女を喩えた落ち葉を踏みしだくのだから、間接的に、女を踏みしだくことに他ならないためだ。作者が医者であることを考慮してよいのならば、女が家族の誰かの看病をしていて疲れている様子へのシンパシーとも、推測できる。ただし、この場合でも、「わたし」の女への隠された欲望を否定することは到底、できないが。
ウィリアムズの「ある婦人の肖像」("Portrait of a Lady," 1920)では、男と等身大の女が登場する。ただし、男女間に対等で交流しあう対話が成立しているわけではない。

ある婦人の肖像

おまえの太股は りんごの木
その花ばなが 空に触れる
どの空? 空とは
ワトーが あるレディーの
履き物を引っかけた空 おまえの膝は
南のそよ風ーーあるいは
吹雪でしょ ああ! どんな
人だったっけ フラゴナールって?
ーーまるで それが何にでも
答えるように ああ そうです その
膝の下には 調べが
あちらへ落ちるように それは
あの白い夏の日びの1日
おまえの踝の 背の高い草が
海辺に きらきらと光るーー
どこの海辺?ーー
砂が おれの唇に付いてーー
どこの海辺?
ああ それは花びらかもしれない どうして
おれが知っていようか
どこの海辺? どこの海辺だって?
おれが りんごの木の花びらだって 言ってるだろ

Your thighs are appletrees
whose blossoms touch the sky.
Which sky? The sky
where Watteau hung a ladyユs
slipper. Your knees
are a southern breeze --- or
a gust of snow. Agh! what
sort of man was Fragonard?
--- as if that answered
anything. Ah, yes -- below
the knees, since the tune
drops that way, it is
one of those white summer days,
the tall grass of your ankles
flickers upon the shore ---
Which shore? ---
the sand clings to my lips ---
Which shore?
Agh, petals maybe. How
should I know?
Which shore? Which shore?
I said petals from an appletree.           (NAAL 1166-67)

既に上記の訳で気付かれるかもしれないが、一方に、女を讃えつつ支配しようとするロマンティックな男の欲望があり、他方には、そのロマンティックな男をからかう現実の女の自我意識がある。作品中の質問群は、たいていの批評家が解釈するのと違って、男の内面に浮かぶ言葉ではない。これは、ワトーとフラゴナールへの言及によって分かる。
ワトー(Jean Antoine Watteau: 1684-1721)もフラゴナール(Jean Honore Fragonard: 1732-1806)もともに、ブランコに乗った貴婦人と彼女を背後から押す男を画題とした絵を残しているが、一方のワトーは、その2人だけのシンプルな構図であり、他方、フラゴナールは、貴婦人の前方に隠れて貴婦人のスカートの下を覗く男を配している。(坂本70、82頁)ただし、貴婦人のスリッパが空に脱げるのは、フラゴナールのほうであるから、「あるレディーの/履き物を引っかけた空」とは、ワトーの空ではない。したがって、「フラゴナール」への言及は、絵画に関する知識の訂正をほのめかすと考えるべきだろう。そこで、問うべきなのは、語り手が自らの誤りを訂正しようとしたのか、それとも、介入する作者の可能性を含めて、別の人物が質問したのかである。もしも前者が正解だとすれば、それは不合理である。なぜなら、その場合の表現は、「どんな/人だったっけ フラゴナールって?」とならずに、「いや、あれはフラゴナールの絵だったかな?」といった主旨が自からの問いになるはずであから。また、語り手は、6行目で「南のそよ風」と言い、また、りんごの花の咲く季節や夏のイメジに一貫しようとするのに対して、まったく正反対の「吹雪」を提示するのが、語り手であるとは考えづらい。したがって、語り手以外の誰かが彼に問うていると考えたほうが合理的だろう。すると、問うのは、誰なのであろうか。
じぶん以外の者の問いに対して、語り手がそれなりの答えや反応を示しているように思えることから、作品の外から作者が介入しているとするのは、やはり不合理である。むしろ、その語りの場にいるはずの、語り手が讃えようとしている女性が、彼に問うていると解釈したほうがいいだろう。以下、この解釈に従って、女性の言葉であると推測できる部分をゴシックで示しながら、作品をもう一度読み直そう。

おまえの太股は りんごの木
その花ばなが 空に触れる
どの空? 空とは
ワトーが あるレディーの
履き物を引っかけた空 おまえの膝は
南のそよ風ーーあるいは
吹雪でしょ ああ! どんな
人だったっけ フラゴナールって?
ーーまるで それが何にでも
答えるように ああ そうです その
膝の下には 調べが
あちらへ落ちるように それは
あの白い夏の日びの1日
おまえの踝の 背の高い草が
海辺に きらきらと光るーー
どこの海辺?ーー
砂が おれの唇に付いてーー
どこの海辺?
ああ それは花びらかもしれない どうして
おれが知っていようか
どこの海辺? どこの海辺だって?
おれが りんごの木の花びらだって 言ってるだろ

以上からより明確になったと思うが、この作品は、女の言葉には耳を貸さずに女を讃えようとする男を、当の女がからかう様子をよく描いている。結果として、美や伝統や男優位への批判を伝えると同時に、男の側の苛立ちもまた、よく表現されている。
ウィリアムズのこの2作品から分かることは、もはや、男の支配下には保っておけない女の存在と、それへなお惹かれる男の側の欲望であろう。ウィリアムズの世界において、女は、既に他者である。
伝記上ウィリアムズは、婚外交渉を少なからず行ったことが明らかになっている。彼は、それを作品の中で隠しさえしなかった。彼のライフ・ワークである長編詩『パタソン』(Paterson, 1946-58)では、女との絡みがたくさん出て来る。また、ここでの説明は省くが、他の女たちと関係したことを妻へ告白し謝罪する「アスフォデル」("Asphodel," 1955)という作品も書いている。そして、これは、彼の後期の傑作といわれる。
彼の『自伝』によせる序文には、「わたしはベッドをともにした女たちのことを詳しく話そうとは思っていない、いや、何も言うまい。そんなことを詮索しないでくれ。それは、わたしと何の関係もないのだ。男たちや女たちとの関係で、わたしの心をとても深く動かした出会いはすべて、ベッドの中で起こったのではない。わたしは、欲望において極端にセクシャルであり、いつでもどこでも、欲望を持ち歩いている。ここからわたしたちみんなに力を与えてる、突き動かすものが起きてくるのだと思う。この突き動かしが与えられると、男は、心の赴くままにそれを処理する。この力を向ける様子に、男の秘密が横たわっている。わたしたちは、いつも、人生の秘密を人目に付かないようにしている。したがって、わたしの人生の隠された核心だと思うことがらは、この場(=『自伝』)のように外的な状況を話そうとする時でさえ、容易には、明かされないだろう」と述べている。(Williams xi-xii)

3)エズラ・パウンド:虚無としての女
エズラ・パウンドは、非常に評価の難しい詩人であるが、その理由を以下に羅列すると、
(1)彼の仕事に幅がありすぎる:彼はもちろん、詩人であるが、叙情詩から長編叙事詩まで書き、また、前衛的な作品も残している。同時に、イマジズム、ヴォーティシズムなどの指導を行った。彼は、古代エジプト詩、古代中国漢詩、ロマンス吟遊詩、古典イタリア詩、日本の能までを翻訳し、また、編集者としても活躍した。文学の教師でもあり、若い文学者の育成や援助を行う。さらには、文学批評家、劇詩家、思想家、また、音楽愛好者でもあった。
(2)たとえば、『キャントーズ』の詩篇どうしを比べると分かるが、作品の出来不出来にムラがありすぎる。
(3)右翼的、ファシズム的政治思想の問題:彼は、思想的にファシズムを支持し、反ユダヤ主義。反アメリカを標榜した。しかも、高利貸し批判、ユダヤ批判、ムッソリーニ側に立った反アメリカ宣伝にみられるように、破壊的で革命的である。
(4)パウンドの中のディレンマ:彼の詩学には、ヨーロッパ文化への二律背反、アメリカへの二律背反、ホイットマンへの二律背反、お金への二律背反、「翻訳は創作である」という台詞が示す詩作品への二律背反が明白に見られる。
(5)統一性、一貫性の無さ:上記(4)をむしろ恣意的に利用して、絶えざる自己破壊を行い、前作を乗り越えるというよりは前作を否定するような変化を示す。言い換えれば、先行するイメジを膨らますというよりは先行するイメジに対立するイメジを導入する手法を好む。また、じぶんの理想に関しても、『スピリット・オヴ・ロマンス』では中世中頃のプロヴァンスからルネッサンスの直前までを理想の時代としていたのに、いつのまにか、孔子と儒教の世界に変わっていた。
 パウンドの「ある婦人の肖像」("Portrait dユune Femme," 1912)は、彼のロンドン時代の作品であるが、2律背反的な女性観を伝えている。

ある婦人の肖像

貴女の心と貴女は われらがサガッソー海
ロンドン中が この20年 貴女の回りをさっと過ぎた
灯を点した船が 貴女に あれやこれやを心付けに残す
いろんな考え 古い噂話 すべての物のつまらない部分
奇妙な帆柱のような知識 くすんだ高価な陶器など
偉大な心が 貴女を求めたが それは 別の人がいなかったから
貴女は いつも代用品でした 悲劇的?
いや 貴女は そっちのほうが普通のことよりよいと思った
頭の悪い男 つまらなくて女房に甘い奴
平均的な心 毎年 ひとつづつ考えが減って行く
ええ 貴女は 我慢強かった わたしは 貴女の姿を見ていました
何時間も座っていて そこは 何かが浮かんだったかもしれない場所です
そして 貴女が支払う ええ 惜しげもなく支払うのです
貴女は 何か面白い方で 貴女を訪ねて人がやってきて
奇妙な獲物を持ち去ります
釣り上げたトロフィーとか へんてこな考えとか
袋小路の事実とか 小話をひとつふたつ
マンドレークで膨れ上がっていたり それとも何か他の
あるいは役立つかもしれないが 証明はされいない物とか
角にぴったり来ない物とか 役立たずとか
日びの翳りに その時を見出す
変色した安ピカの素敵な骨董品
偶像 竜涎香 珍しい象眼細工
こうした物が 貴女の宝物 貴女の大切な蓄え それでも
これらすべての海の貯え つかの間の品じな
半ば水に浸かった奇妙な森 新しいというより明るい品が
光の変わる深みにゆっくりと浮遊しながら
いや 何もない すべて隅から隅まで
貴女の物と言えるのは 何もないのです
   それでも それが 貴女です

Your mind and you are our Sargasso Sea,
London has swept about you this score years
And bright ships left you this or that in fee:
Ideas, old gossip, oddments of all things,
Strange spars of knowledge and dimmed wares of price.
Great minds have sought you--lacking someone else.
You have been second always. Tragical?
No. You preferred it to the usual thing:
One dull man, dulling and uxorious,
One average mind--with one thought less, each year.
Oh, you are patient, I have seen you sit
Hours, where something might have floated up.
And now you pay one. Yes, you richly pay.
You are a person of some interest, one comes to you
And takes strange gain away:
Trophies fished up; some curious suggestion;
Fact that leads nowhere; and a tale or two,
Pregnant with mandrakes, or with something else
That might prove useful and yet never proves, 
That never fits a corner or shows use,
Or finds its hour upon the loom of days:
The tarnished, gaudy, wonderful old work;
Idols and ambergris and rare inlays,
These are your riches, your great store; and yet
For all this sea-hoard of deciduous things,
Strange woods half sodden, and new brighter stuff:
In the slow float of differing light and deep,
No! there is nothing! In the whole and all,
Nothing that's quite your own.
Yet this is you.               (NAP 1186-87)

この作品は、語り手をいわば全知の立場に置いて女に呼びかける形を取るが、叙述的であり、女の言葉は無い。タイトルがフランス語で「女」(femme)と表現している点からも、彼女をロンドン社交界のサロンの女として仄めかしながら、本文中では「代用品でよい」と女に述べさせて、男のご都合主義を思わせる。
サガッソー海は北大西洋にあり、サガサム(ホンダワラ属)という茶色い海草に覆われた比較的静かな海であるが、沈没船の宝庫であるとも言われている。(EA)そうした海に女を比喩する点から、全体のメッセージとしては、女の華やかさとくだらなさ、虚無としての女の姿を伝えるが、しかし、それは、彼女への関心を否定するものではない。むしろ、対象の女性に大いなる関心を寄せていることも確かであるから、パウンドの女性観に2律背反が見られると言えよう。すなわち、虚無の女を作品に取り上げざるを得ないパウンドの女性観とは、とりもなおさず、追いつめられつつある男の優位性を逆照射するのだろう。
女性関係を伝記から言うと、パウンドには、愛人がいた。イタリアに住んでるとき、時おり家庭から姿を消し、それも、2、3日というのではなくて、1カ月くらい、別な女のところで暮らした。その女は、オルガ・ラッジと言って、1895年4月13日(トマス・ジェファソンと同じ日)にオハイオ州に生まれたアメリカ人でヴァイオリニストだった。パウンドと彼女は、イタリア移住以前のパリの音楽会で出会って以来、親しい関係となった。そして、オルガが1年がかりでパウンドを説得して子どもを生むことにしたという。生まれたのは女の子でメアリと言うが、彼女はのちに、しばらく、パウンドの遺稿のほとんどが寄贈されているイェール大学バイネッケ図書館に勤めていたことがある。パウンドとオルガの愛は、第2次世界大戦を生き抜き、パウンドの逮捕を越えて、パウンドが死ぬまで続いた。
彼には、オマールという男の子が、正妻であるドロシー・パウンドとの間にいたが、本当にパウンドの子どもかどうかを疑う学者もいる。エズラ・パウンドは、30年代、40年代、また、60年代以降、ほとんどオルガと暮らし、時おり、ドロシーを尋ねるという生活を送ったという。ドロシー・パウンド、正しい妻のほうは、「委員会」と称して、パウンドのコピーライトの管理を行っていた。晩年に、「もう18カ月も会っていない」と愚痴を言っている。
1972年11月、エズラ・パウンドが死ぬ。すべての遺産を、オルガとの子どもメアリーに残すと遺言するが、これが、有効かどうかをめぐって、イタリア司法当局が悩む。と言うのも、パウンドはイタリア人ではない。しかし、アメリカに1945年に強制送還されているので、アメリカの法律も適用できない。どちらの国の法律に従えばいいのだろうか?
1973年12月8日、ドロシー・パウンドが死ぬ。
オルガは、2、3年前になくなる。既に100歳を越えていた。メアリは今、パウンドの住処であったあのラパロの城に住んでいる。

4)T・S・エリオット:独白としての女
たとえば、エリオットの主張、「詩は、情緒の解放ではなくて情緒からの逃避であり、個性の表現ではなくて個性からの逃避である」と述べているが、(エリオット19頁)この文章で、感情や個性を女の愛に置き換えると、彼の女性観が見えてくる。すなわち、「詩というのは、女の愛の解放ではなくて女の愛からの逃避である」のだ。
エリオットも、ウィリアムズやパウンドと同じタイトル「ある婦人の肖像」("Portrait of a Lady," 1917)で詩作品を書いているが、そこには、けっきょく、女の愛から逃避する姿が見える。

ある婦人の肖像

   おまえが犯したのだー
   姦通を ただし 他の国の話だが
   それに その子は死んだが
            『マルタのユダヤ人』


 煙と霧に包まれた ある12月の午後
おまえは 場面をあるがままにしてーーまるでそう見えるようにしてーー
「わたし 今日の午後をあなたのために取っておきましたの」と言う
・・・
「あなたにはお分かりにならないのよ お友だちがわたしにどんなに大切かってことが・・・


・・・
まあいい! それで もしも 彼女がある午後に死んだなら
灰色に煙って 黄色でバラ色の夕暮れに死んだなら どうなるのだろう
彼女が死んで おれのほうは 手にペンを持って座って
家の屋根から煙が降りてきたなら
しばしは 疑い
何を感じるべきか 理解すべきかどうか
賢いのか愚かなのか 鈍いのか早すぎるのか分からないだろう・・・
けっきょく 彼女が勝つということではないか?
この音楽は 「消えゆく音」でうまく行っている
だって 今 消えゆくことを話しているからーー
で おれには 微笑む権利があるのか?

   Thou hast committed--
   Fornification; but that was in another country,
   And besides, the wench is dead.
    The Jew of Malta

1
Among the smoke and fog of a December afternoon
You have the scene arrange itself -- as it will seem to do --
With ヤI have saved this afternoon for youユ;
・・・
ヤYou do not know how much they mean to me, my friends, ・・・

3
・・・
Well! and what if she should die some afternoon,
Afternoon grey and smoky, evening yellow and rose;
Should die and leave me sitting pen in hand
With the smoke coming down above the housetops;
Doubtful, for awhile
Not knowing what to feel or if I understand
Or whether wise or foolish, tardy or too soon . . .
Would she not have the advantage, after all?
This music is successful with a ヤdying fallユ
Now that we talk of dying --
And should I have the right to smile?            (Eliot 18-21)

この作品は、追憶をもとにした叙述形式をとっているが、女へ「あなた」と呼びかけたり、「彼女」と第3人称で客観的に描いたりする点に、女との距離を測りかねている様子が見える。内容は、女との別れにすぎないが、冒頭のエピグラフなどから、なにか疚しいことを犯しながら隠している印象を与える。
作品のなかで、女がじぶんの言葉で語っているが、しかし、男との対話は成立していない。いわば、それは、女の独白に過ぎない。しかも、女の言葉は、その思考内容のつまらなさ、平凡さを浮き彫りにしている。一方的に女にしゃべらせながら、語り手の反応は、直接、女へ向けられず、地の文の中で、感想や思いの形で述べられている。その態度は、女へ直面することの恐怖を隠しているし、その内容は、じぶんの罪への言及や反省である。この自己言及は、4人のアメリカン・モダニストのなかで、エリオットだけに見られる特徴であろう。ここでは紹介しない他の作品とあわせて読めば、エリオットがかなり、自意識過剰だったことが分かる。
この作品は、1910年から12年の頃、エリオットがヨーロッパに旅立つ前に書かれていたが、ここでありありと分かるのは、女というものがじぶんの手に負えない存在だという認識である。実際のエリオットの人生においても、この認識が確認される。逆に言えば、「ある婦人の肖像」は、いわばエリオットの女性関係を予言する作品であった。
彼の女性関係は、基本的に不幸だった。1915年に結婚した相手ヴィヴィアンは、精神的な病になり、その長い看病のあとに、彼女は死ぬ。そのあいだ、彼はじぶんが彼女の不幸の原因であると思いながら、しかし、彼女との直接的な対決を避け続けた。(マシューズ171ー203頁)その一方で、たとえば、「J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌」("The Love Song of J. Alfred Prufrock," 1917)などの作品を詳しく読めば、売春宿の訪問などを暗示する箇所が見られる。また、永遠に未完で終わった猥褻な物語詩を書いていたことも知られている。(マシューズ59頁)

6まとめ:現代のほうへ
これら4人のモダニストが生きていた時代、アメリカでは、女性のめざましい地位の向上があった。たとえば、1921年、ニューヨークで1500人の観衆を前にしてひとりの看護婦がバース・コントロールについて語っていた。彼女によれば、性の喜びは出産と別のものである。性は、喜びのためにあってよく、必ずしも、子孫を生むためばかりのためではない。しかもこれは、神の認める神聖な喜びである、と主張した。この看護婦は、マーガレット・サンガー(Margaret Sanger: 1879-1966)といい、敬虔なクリスチャンであった。これまでの伝統的な考えによれば、性は妊娠と出産のためであり、実際、コムストック法という避妊の禁止法が、当時のアメリカにあった。サンガーは、この法律廃止と家族計画の実施にその生涯を捧げた。もちろん、彼女の考えは、結婚制度という枠の中であるが、それまでの暗いイメジを持っていた「避妊」(Contraception)という言い方を、女性が主体的な判断で妊娠をコントロールできる「バース・コントロール」(Birth Conrol)という言葉に変えた。これは、その主旨から言えば、「産児制限」というより「妊娠制限」と訳した方がよいだろう。こうした考えが生まれた背景には、彼女のヴォランティア活動があった。彼女は、無知ゆえに、貧しい女性が夫の欲望に身を任せ、妊娠を繰り返し、体を衰弱させて、ついには死んで行く姿を多く見てきた。
現在、サンガーは、性と出産の分離を主張して、妊娠制限を世界的な規模に広げ、性に関する倫理観を変えることで、女性を男の欲望から救った者として高く評価されている。(Gardella 130-140)
政治的に言えば、アメリカ合衆国で婦人参政権が全国的に認められたのが、1920年であった。ただし、州ごとに見れば、1869年ワイオミング準州、93年コロラド、96年ユタ、アイダホで既に、婦人参政権が認められてはいたが。20年代は、別名「ジャズの時代」とも言われるが、第1次世界大戦を経て、アメリカが債務国から債権国へ変わったその繁栄を謳歌する時代であり、また、女性の地位が向上する時代でもあった。

アメリカにおける現在の男女関係は、対等な者どうしが結ぶ愛の契約関係として集約されるだろう。
もともと、アメリカ合衆国は、西欧の近代思想をアメリカ大陸で純粋培養した国家であり、契約の概念が男女関係や結婚関係までおよぶ国であるから、夫婦と言えども、契約の不履行は許されない。愛情が無くなれば、離婚する。したがって、アメリカの夫婦関係は、いわば、緊張の連続と言えよう。仕事が終われば家に直行する夫が正しいのであり、日本のように、会社の帰りにちょっといっぱいとはいかない。妻は60歳、70歳になっても、いつもきれいに着飾り、愛情関係を刺激することが求められるし、夫のほうは妻の髪型を褒め、洋服が似合うと言い、「おまえを愛している」と毎日ささやく。アメリカ人の母親が、娘が離婚すると聞いて、まず質問するのが、たとえば、「おまえは、夜寝るときに、いったいどんなネグリジェを着ていたんだい?」である。
家族において親子関係を優先させる日本と違って、アメリカは、夫婦関係を重視する。帰宅する夫が子どもを抱き上げ、かつ、妻を抱かないのが日本だとすれば、夫がまず妻を抱き、その後子どもに話しかけるのがアメリカである。散歩するにしても、日本では、夫婦が子どもの手を握るが、アメリカは、夫婦が手を握る。車に乗る場合でも、日本人は、子どもを助手席に座らせがちだが、アメリカ人は、夫婦が前の座席に座るのがふつうである。また、たいていのアメリカ人夫婦は、一貫して、互いにファースト・ネームで呼び合う。子どもをベビー・シッターに預けて夫婦で夜の外出をするのがアメリカでは一般的だ。
家計は、スティーヴンズがその典型であったが、夫が管理する。水道代や電気代を払うのは、夫である。夫の週給や年収を知らない妻も、多い。結婚しても、互いに独立した個人であるから、夫の稼いだ金は、夫のものである。
日本では、夫婦和合、夫婦一体がモットーであり、女にとって結婚は、伝統的には「家の女=嫁」に変身する人生最大の儀式であった。家庭に入った日本の女は、乱れた髪にパジャマ姿で夫の出勤を見送ることが許される。飲んで帰宅する夫に釣り合うように、妻は、先に食事を済ましてしまうことが認められている。日本では、子どもが産まれると直ぐに、「パパ」や「おとうさん」、「ママ」や「おかあさん」に呼び名が変わる。伝統的には、子どもを夫婦の真ん中に挟んで「川」の字に親子が寝ることが理想とされてきた。日本は、夫婦の愛情よりも、家族という集団を最優先し、子どものためには、たとえ夫婦間に愛情が無くなっても耐えて行く。
しかし、アメリカ人は、日本の「家庭内離婚」という日本の奇妙な現象に驚く。彼らは、個人を発想の核とし、結婚とは個人と個人の契約に基づいた結合であるから、父親や母親として自己表現するよりも、一個の人間であることを、まず、強調する。
現状のアメリカは、初婚年齢の上昇、結婚率の低下、独身者・同棲者の増加、女性1人当たり出生数の低下、離婚の増加、1親家庭の増加、女性の自立化、といった傾向が顕著だと言われる。その評価は別にして、夫が外で働き、妻が家事・育児に専念し、子どもが少なくとも1人はいる伝統的で典型的な核家族の割合が、7家族に1家族だという報告もある。
この背景には、離婚を罪悪視する社会的な通念が後退して、とにかく結婚は永続すべし、から、不幸な結婚は解消すべし、という合理的な考え方に変化したことがあるだろう。また、離婚法の改正によって、1970年以降、有責離婚法から、破綻主義離婚法へ変わり、つまり、原因よりも実態を重視する方向へ変化し、同時に、離婚手続きの簡素化が進んだこともあるだろう。もちろん、離婚とは、ある特定のパートナーの否認に過ぎず、結婚制度や家族制度を否認しているわけではない。実際、再婚、再再婚を行う人びとが多い。
ある研究者によれば、アメリカ植民地時代のピューリタン社会は、「連続する単婚制度」を個人が実践していたという。(Davies 188)ピューリタンにとって、ただひとりの相手へ執着することは、この世への執着であり、結果として、神の救済を無とするものであった。事実、結婚相手が死亡すれば、あまり間をおかずに再婚する場合が少なからずあったことが分かっている。現在、アメリカン・オブセッションのひとつとして、単婚制度への執着があるが、これは、ピューリタニズムの逆説的な継承だと言えるかもしれない。確かに、アメリカの離婚率は高い。だが、だからといって、アメリカから結婚制度が無くなるわけではない。

モダニズムの時代、フロイトは、女を「欠如した性」と考えたが、たぶんいつかは、男が「過剰の性」と言われることもあるのだろう。ただし、当然、真実は、その中間にあるはずだが。アメリカン・モダニストたちは、「若くて美しい女」という、プラトン以来、19世紀ロマン主義者に至るまでの長い詩的呪縛から詩人たちを解放して、詩がうたう対象としての女性像を老女にまで拡大したが、それは、時代の変化によって、男に対して対等な立場を手に入れ始めた、拡大する女性たちの姿を反映していたと言えよう。モダニストたちは、現実社会で次第に、男と等身大の姿で現れ始める女に対して、困惑と恐れを感じながら、なお、憧れも保っていた。彼らがうたう女性像から推し量られる欲望は、アメリカン・マッチョとして男性優位を確保しようとする、男たちの最後のあがきであったのかもしれない。もはや、現代において、モダニストたちがうたうような女性像は、許されない。
はたして、現在の日本は、今、アメリカの歴史の中のどの辺りを生きているのであろうか。




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引用・参照文献一覧

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Witemeyer, Hugh, ed. Pound Williams: Selected Letters of Ezra Pound and William Carlos Williams. NY: New Direction, 1996.

アメリカ人に恋愛は可能か? アン・ブラッドストリートをてがかりに


アメリカの夫婦関係は恋愛関係である
 アメリカの夫婦関係は、ぼくなどからみれば、緊張の連続にみえる。彼らは、
いわば、つねに恋愛を持続していなければならないのだから。
 かなりステレオタイプ化されているが、妻の髪型を褒め、洋服が似合うと言い「おまえを愛している」と毎日ささやくのが、今でも、夫として正しい振舞いである。妻もまた、たとえ70歳、80歳であろうと、いつもきれいに着飾り、愛を刺激する。
 娘の離婚話に対する、ある母親の反応として「夜寝るとき、どんなネグリジェを着ていたのか」と質問したエピソードがあるが、これも、性的な刺激を含めて、結婚相手とのあいだで恋愛関係を持続させることが最優先であると思われているためだろう。アメリカ人にとって、愛とは、精神的な恋愛であり、かつ、肉体的なセックスである。
 あたりまえのことだが、結婚制度が恋愛を持続させる装置として働く保証はない。アメリカ合衆国では、契約という考え方が結婚制度にまでおよぶから、愛を誓った結婚生活で恋愛感情・愛情関係が無くなれば、離婚する。もちろん、その決心に至るまでには、激しくも辛い葛藤があるに違いないが。

アメリカ的結婚観はいつ始まったか
 結婚生活が恋愛でなければならないような結婚観が、いつ、アメリカで始まったのかといえば、もちろん、アメリカが起源したときである。次の詩作品は、アメリカ最初の詩人といわれるアン・ブラッドストリートがうたったものだが、既にそこには、現代に受け継がれる夫婦愛が表明されていて、ひじょうに興味深い。

   わたしの大切な愛する夫へ アン・ブラッドストリート

   もしも ふたりがひとつなら わたしたちがそうでしょう
   もしも 夫が妻に愛されるなら あなたが そうでしょう
   もしも 妻が夫といっしょで 幸せだとすれば さあ
   あなたがた 女のひと できるなら わたしと較べて
   わたしは 世界じゅうの金鉱や 東洋にある
   すべての富よりも あなたの愛を大切に思う
   わたしの愛は 激しくて 河の流れも 消せず
   あなたからの愛以外つり合うものがありません
   あなたの愛は わたしがどうやっても報いることができないほどで
   天がいろんな形で あなたに報いるようにと わたしは 祈ります
   ですから わたしたちが生きるかぎり 愛に生き続け もはや
   生きることがないのなら わたしたちは 永遠に生きましょう

もともと、結婚した相手に捧げる恋愛詩は珍しいが、ここでは、夫婦愛が明白にうたわれている。詩人は、ほかの女の人たちに挑むかのように「わたしと較べて」と命令し、高らかに夫への愛を宣言する。ブラッドストリートは、アメリカ独立のずうっと以前、まだ大航海時代の雰囲気が漂う1630年、ピューリタンの信仰に生きるためにイギリスを去り、夫とともにマサチューセッツ湾植民地ボストン周辺で開拓生活に入った人である。最後の2行は、死後において愛の持続を求めているように読めるが、そう明確に言えば、ピューリタンの教えに反するため回りくどい表現になったのだろう。

アメリカ人たちは今なお恋愛へ挑戦し続ける
 アメリカ人に恋愛は可能か? もちろん可能だろう。だが、これは、アメリカ人に結婚は可能かとほとんど同じ問いのように聞こえる。恋愛を維持するのは難しいから、離婚率がかなり高くなってきているし、また、新しい男女関係や家族観が模索されている。しかし、それでも、アメリカから結婚制度が無くなるわけではない。かって彼らの始祖とも言うべきピューリタンたちが試みたように、恋愛の維持へ向けて、彼らの多くは、日々挑戦を繰り返す。何度でも繰り返す決意がある。

アン・ブラッドストリート、または、ピューリタ ンの性と回心(『文学批評のポリティックス』 所収)


ある個人が、それも、女性がその第1頁で論じられるのは、アメリカ文学史の通例で
あるが、しかし、この通例が、他国の文学史ではほどんどあり得ない驚くべき事実と
して、ここであらためて強調してよいだろう。アメリカは、ヨーロッパの古い伝統を
断ち切って近代的なもののみを移植し純粋培養した点に、そのアイデンティティがあ
り、したがって、その文学もまた、近代文学の特質を秘めている。作者不詳ないしは
男が司ってきた他国の文学伝統とまったく異なり、アメリカ文学は、神話でも歌でも
舞踊でもなくて、個人による創作でその歴史を始めた。そして、本国のロンドンで出
版されたアメリカ人による初めての創作は、女性によるものであった。これは、もち
ろん、アン・ブラッドストリートの『第10番目の詩神』(1)を指しているのだが
、この後、詩や小説を含めて女性の作者が輩出されるアメリカの20世紀を望見する
ところに、アメリカのアメリカたる所以のひとつがある。

1 評価における矛盾と対立
アン・ブラッドストリートが女であるために、現在、フェミニスト的な解釈が多く見
られるようになった。これは、傾向として大きく2つの極端な方向に分かれるようだ
。(2)ひとつは、批評や論文になりづらい考えだが、夫に従って生きた典型的に古
風な女性のひとりとブラッドストリートを見なして、評価しない、ないし、無視する
傾向である。もう1つは、かなりうがった解釈だと言ってよいだろうが、論理を逆立
ちさせて、ブラッドストリートを積極的に評価しようとする傾向である。たとえば、
アン・スタンフォードやウェンディ・マーティンなどは、ブラッドストリートを当時
支配的であった男性中心主義のエートスへの抵抗者と見なすことによって、フェミニ
ズム的な観点から、彼女の創作を救出しようとしている。(3)彼女たちの主張を言
い換えながらまとめると、女が書くことを忌み嫌う当時のピューリタン社会に暮らし
ながら、詩作を行うだけでなく発表することさえできたのは、ブラッドストリートが
ピューリタン的な基準に合わせる、いわば、偽装を行っていたたためであり、この偽
装を支える、ブラッドストリートの創作活動の根本には、男性支配の社会構造への反
抗があり、権力者や男性の権威への怒りがあると解釈する。
たしかに、ブラッドストリートには、男たちが女たちを貶めてきたことへの怒りやサ
タイアがある。しかし、それらは、19世紀の男性文学者でさえ気付くほどあからさ
まなことであり(4)、とりたてて指摘することで、かえって、歴史的な文脈からこ
の詩人を切り離してしまう危険を犯す必要があるのだろうか。少なくとも、当時の男
たちは、こうした反権力、反男性的な要素を反社会的なものと見なしていなかったか
らこそ、出版に及んだのであろうし、また、出版後は、大いに受け入れたのであろう
。もしも、ときおり彼女の作品中に示される内的な葛藤や反正統的な考えが、時の権
力者たちによって反社会的だと見なされるのなら、当然、検閲や出版妨害などの処置
がとられていたか、それとも、もっと巧妙に彼女は、それらを隠していただろう。実
際には、死後に、訂正拡大された第2版が出版されている。
テレシア・ニコレイなどは、ブラッドストリートをピューリタン的な信仰に心身とも
捧げていた女性であり詩人であると考える。(5)あるいは、ロバート・リチャード
ソンによれば、ブラッドストリートは、世俗的な生活と精神的な生活の間でピューリ
タンたちが経験するような葛藤を描こうとしていると言う。(6)こうした考え方は
、単に穏やかだというだけでなく、当時の事情を勘案すれば、概ね妥当なものであろう。
一見すると矛盾に見えるこうした対立的な意見が生じるのは、ハモンドによれば、ブ
ラッドストリートの責任ではなくて、むしろ、20世紀読者のせいであると断言する
。対立項をみずからのなかで解決できない者が、ブラッドストリートにおける信仰と
疑惑の表面的な揺れを、矛盾とか未解決とか見なしているにすぎない。ハモンドは、
ブラッドストリートの作品や散文に見られる反宗教的な言辞や感情が実は、当時の言
説のなかに納まるものであり、ピューリタン社会にとって受容可能であったと断言し
ている。(7)このハモンドの主張を大枠として受け入れるなら、アン・ブラッドス
トリートがいかなる方法で正統派たり続けたかは、『第10番目の詩神』以降の主た
る作品の分析をとおして明らかになるはずであろう。(8)

2 ピューリタニズムにおける宗教的な疑問の正統性
2 懐疑と正統
1630年代のアメリカン・ピューリタニズムにおいて特に重要なのは、「回心の儀
式」であるが、この「回心」とは、文字どおりには、方向を変えること、ないし、転
回点を意味する。異教徒や不信仰者が回心するとは、キリスト教の信仰を受け入れる
ことを意味し、既に洗礼を受けているクリスチャンが回心するとは、単なる形式上で
はなくて心から信仰を受け入れ、正しい道に戻ること、ないしは、罪人が神から離れ
ていた後に、神のもとへと戻ってくる行為を意味する。(9)ピューリタンは、人間
一般を罪人とみなし、その中で許された者にだけ回心が起こり、神との結合を許され
ると考える。ただし、いかに許されるのか、いかにして許されたかどうかが分かるの
か、許されると、この世での生活は、どう変化するのか、さらには、許されたはずな
のに、なぜ、繰り返して、「備えの瞑想」を行わなければならないのか、などの疑問
についての超歴史的で絶対的な答えはない。アメリカン・ピューリタン正統派が形成
した当時の選民たちの教会は、全ての教会員の内面的な精神のあり様を試すことがで
きるし、また、そうすべきであると考えていた。こうした、真の回心と誠の救済への
信仰を持つという証拠を要求して、経験を試すために、「回心の儀式」があった。(
10)
「回心の語り」の類型は、以下のようになっている。初めの無知と自己欺瞞から、き
ちんとした知識を手に入れることにより、罪への激しい悲しみ、悪魔や異教の中で死
ぬことへの恐怖のほうへ進む。魂は、説教されたり読まれたりした言葉を拠りどころ
として、神からの密かな援助の微光を捉え、その甘美な援助の手と幻滅への不安の間
で揺れ動く。いったん、義務を怠ったりすると、その罪悪感に悩み、キリストに全て
を投げ出したいと願う。けっきょく、絶望の淵から、わずかな希望の光を手がかりに
して、神の方へ進み、最後には、常に変わらない神に心のやすらぎを見出す。(11)
アン・ブラッドストリートの示す宗教的な疑いや自己嫌悪も、この「回心の語り」の
大枠から外れることはなく、すべてがこの中に回収されてゆくと言ってよい。基本的
に、ブラッドストリートは、イギリスで教育を受けて知的でありながら、『聖書』の
説く伝統的な女の仕事を、じぶんの仕事として受け入れている。政治的な思想をみず
から持つことはない。あるいは、持つとしても、当時の大勢と同意見であり、なんら
革新的なところはない。たとえば、アイルランドの占領を称揚する。(12)男たち
に従うことに、なんらの不満も不安も感じない。たとえば、父を称揚して謙遜する。
(13)夫が帰ってくることだけを望んで生きている。(14)
詩作品「瞑想」や「疲れたピルグリムが」(15)などを読めば分かるとおり、彼女
は、正統なヒピューリタンだとみなされる。もちろん、彼女が疑いを示すこともある
が、これ自体、正統なピューリタン的信仰として位置づけることができる。なぜなら
ば、前述のようにピューリタニズムで自らを疑うことは、重要な宗教的モメントのひ
とつであったためだ。彼女は、自己嫌悪さえ示すことがあるが、自己嫌悪もまた、す
ぐれてピューリタンの特徴のひとつであった。(16)
とりわけ興味深い例は、「わたしの大切なこどもたちへ」という散文である。これは
、じぶんの子どもたちへ遺書の形で、じぶんの一生を振り返って記した反省の記であ
るが、彼女は、率直にじぶんの疑いや自己嫌悪を明らかにしている。

よく当惑したのだが、わたしは、宗教的な実践のなかの絶え間ない喜びや安らぎを見
いだせなかった。たいていの神の使徒ならば、そうしたことを感じているのでしょう
が。・・・
『聖書』が真実か否かをめぐって、よく悪魔がわたしを困らせた。あるいは、無神論
によって、よく、どうやって神がいることが分かるのだろうと考えた。わたしは、奇
跡を見たことがないので確信できなかった。わたしの読むものがただのまやかしでは
ないとどうやって分かるのでしょうか。(17)

実に率直に、『聖書』への疑いや信仰確信への躊躇が表明されている。彼女は、こう
した躓きの石を、いかにして、克服したのであろうか。

3 自己説得としての著作活動
3 世俗と信仰
アメリカ植民地時代、女は、たいていの局面で男に劣るとされていたが、救済や恩寵
の機会に関して、ピューリタニズムは、男女に差別をつけなかったと言われる。(1
8)したがって、容易に推測できるが、たいていの宗教的な疑いは、回心の儀式に回
収されたり、時の牧師や精神的・権力的に優位に立つ者の言説に説得されて解消され
たであろう。しかし、アン・ブラッドストリートは、違った。彼女は、じぶんでじぶ
んを納得させる必要を感じていた。先に述べた疑いを克服するための彼女の論理は、
理性への信頼であった。ア・プリオリに、あるいは、奇跡を介在させて、神の存在を
受け入れるのではなくて、疑いを疑いとして徹底させることで、神の存在に目覚めた
。森羅万象の存在や日々の賄いが人間に与えられている、その根本理由を「永遠の存
在」とせざるを得ないと、彼女の理性が諭す。もちろん、創造者としての「神」を認
めつつ、創造後はなんらの干渉も「神」は行わないし、したがって、啓示も奇跡もな
いとする理神論ではないが。(19)
では、この「永遠の存在」が、なぜ、彼女の信仰するような「神」であるのだろうか
。これに対する彼女の答えは、それほど説得的ではないが、「神」の言葉以外に天地
創造を語る物語がないし、その中で語られた予言が実現されたりしているためだと述
べる。では、カトリックの人たちの「神」とどう違うのだろうか。彼女は、大胆にも
、「同じ神、同じキリスト、同じ言葉」だと断言する。違うのは、ただ、解釈である
。「彼らは彼らなりに解釈し、わたしたちは別の解釈をする」。(20)
17世紀アメリカ植民地時代において、この理性による神の存在確信は、ある種の誤
解を引き起こすかもしれないほどに新鮮である。なぜ、彼女は、これを胸の内の議論
として収めずに、子供たちへの遺言としたのだろうか。これへの答えとして、少なく
とも、4点を指摘すべきだろう。まず、アメリカ詩人に追底する教育者の側面を見て
よい。伝統的に、書くことが教えることであり、読むことが習うことであったことは
一般的に指摘されているが(21)、とりわけ、ピューリタン社会において、女は、
母として子供を教育する立場にあった。(22)家事とともに、この教育の役割が、
家庭内での女の仕事であると明確にされてゆく中で、近代的な結婚観・家族観が確立
してゆくのだろう。
第2に、そもそも書くことの重要性である。これは、文字の権威への依存と言い換え
てもいい。こと、『聖書』を第一と考える者たちにとって、文字化が永遠を保証する
という思いは、当然の推論である。あのアン・ハッチンソンの裁判で明らかになった
ことは、正統派ピューリタンが神の声ではなくて、神の文字を信じていることであっ
た。ピューリタンには、『聖書』の字義的な解釈や、書かれた文字への信頼がある。
同様に、アン・ブラッドストリートにも、子どもたちへの書き置き、夫への書き置き
などから判断できるように、言語化され、かつ、文字化されたものの永遠性を信ずる
面があると言えよう。
第3に、とりわけ、彼女にとって、著作は、信仰を保障する行為であったと指摘でき
よう。たとえそれが結果として、いわゆる正統派の考えと同じになろうとも、じぶん
で納得することが個人的な性癖として必要であったとすれば、その納得を納得として
現実化するのが、著作であった。1661年5月11日付けの短文(23)の中で、
「主よ、全てを知ろしめすあなたは、ご存じでしょうが、わたしは、わたしの感謝を
言葉だけではなくて行為によって証したいと望んでいます。どうか、わたしの行いは
、あなたへの誓いがわたしに置かれていると語りますように」と述べた後に、彼女は
、各連4行からなる全6連の詩作品を始める。その中で「病や死や苦痛から救ってく
れた」神を讃え神に従う旨を記すのだが、この短文と詩作品との関係を考えるならば
、彼女が短文で意味した「行為」とは、韻文を書く行為に他ならないと言えよう。
最後に、この文章が子ども宛であることから考えて、生き残る子どもたちへ、死後も
、母の権威を確保して影響力を与えたいという欲望の現れと考えていいかもしれない
。ロイ・ハーヴェイ・ピアスが指摘しているが、アメリカ詩の衝動として、アンティ
ノミアニズムがあったし、それは、正統派ピューリタンと判断されているアン・ブラ
ッドストリートにさえ見られると言う。(24)この具体的な内容として、俗世への
執着が指摘されるべきだろう。
ピューリタン的な考えによれば、結婚さえも、死の時点で解消されるのであった。結
婚とは、この世のみのものであり、死後においては、魂のいかなる結合も、もはや、
効力を失う。人は、この世に属するものを愛しすぎてはいけないのだし、夫や子ども
を失う際の、あまりにも行きすぎた悲しみは、神の命に反することとなる。(25)
ところが、ブラッドストリートは、「子供たちに関して」(26)において、永世を
子もたちの生命に見るとまでは言わないにしろ、じぶんが子どもたちの中に生きると
表明したり、あるいは、「彼女の子供が産まれる前に」(27)では、じぶんが産褥
において死ぬかもしれないという想像の下に、夫へ言葉を残す体裁を取りながら、子
どもたちのことを心配し、継母から子どもたちを守るようにと、夫に依頼している。
そこに、死んでゆく女の、この世への執着と、夫の次の妻への嫉妬とを読みとること
が可能であろう。したがって、いかにして、俗世に余り執着してはいけないと説くピ
ューリタニズムの教えと調和するかが、ブラッドストリートの著作で問題となってくる。

4 人称詞のトリック:「回心の儀式」へのアイロニー
アン・ブラッドストリートの作品の中でもっともよく知られている「わたしの大切な
愛する夫へ」(28)のなかにも、あるアンティノミアニズムを見て取ることができ
る。それは、回心の儀式へのアイロニーと、断言による救済の確信である。

もしも2つが1つであるならば わたしたちがそうでしょう
もしも夫が妻に愛されるとすれば あなたが そうでしょう
もしも妻が夫といっしょにいて 幸せだとすれば さあ
あなたがた女のひと できるものなら わたしと較べて
わたしは 世界じゅうの金鉱や 東洋にある
全ての富よりも あなたの愛を 大切に思う
わたしの愛は 激しくて 河の流れも 消せず
あなたからの愛以外つり合うものがありません
あなたの愛は わたしがどうやっても報いることができないほどで
天が いろんな形で あなたに報いるようにと わたしが祈ります
ですから わたしたちが生きるかぎりは 愛に生き続け もはや
わたしたちが生きないなら わたしたちは 永遠に生きましょう
                                      
     
ここでの代名詞の使い方に注目するならば、この作品は、単なる語り手の夫に対する
個人的な愛情告白ではなくて、むしろ、結婚生活における愛を公的に宣言した作品で
あると言える。これまでのどの解釈も、なぜ、語り手の夫が「あなた」と2人称で語
りかけられながら、しかも、「女たち」もまた、「あなたがた」と2人称で呼ばれる
のかを明白にしてこなかった。この問いは、たとえそれが彼女の想像力のなかで行わ
れているとしても、設定として、夫が「女たち」と同じ場面にいると考えることで解
決するだろう。語り手は、「女たち」の面前で、夫に「あなた」と呼びかけ、また、
じぶんたちのことを「わたちたち」と見なしているのだ。
もしも、この解決が正しいのであれば、アン・ブラッドストリートは、この作品の設
定を公的な集いとして、われわれ読者に示しているのかも知れない。さらには、彼女
がこの公的な集いにおいて、ためらうことなく、個人的であると判断できる夫婦間の
愛を告白している点を強調するなら、先ほど説明した「回心の語り」へのほのめかし
を読みとってよいだろう。なぜならば、女たちが日常的に集う場しょとは、とりもな
おさず、教会であったはずだから。彼女が大衆の面前で、夫との一体感を強調し、他
の人びとを説得するというよりも、じぶんたちの愛が最高であると「さあ/あなたが
た 女のひと わたしと較べて」と命令し、さらには、永遠における救済を確信しつ
つ言及していることなどは、もはや告白というよりも、挑戦であり宣言であるという
べきだろう。したがって、「回心の儀式」へのほのめかしとは、とりもなおさず、そ
れへのアイロニーなのだ。また、「わたしたちは 永遠に生きましょう」という呼び
かけの言い方で、祈りというよりも、躊躇なく永生の確信を示す点で、正統的なピュ
ーリタニズムからはみ出す可能性をはらんでいる。

5 人称詞のドラマ:自己分割による正統回帰
「わたしの大切な愛する夫へ」と同様によく読まれ、また、愛されている彼女の作品
「火事の後に」(29)においては、彼女は、正統的な考えを初めから受諾している
し、また、最終的にも受諾するが、しかし、みずからの選択として受諾へ向かうには
、どうしても言語による自己説得を必要とした。これが、タイポロジカルな構成とし
て彼女の詩作品を特徴づける。この「火事の後に」が、もしも宗教的考えのみを表す
ためだけにあるのなら、冒頭から20行目までで、この作品は終わってよかった。

静かな夜 わたしが休んでいると
悲しみなど そばに見えもしなかったが
起こされてみれば 耳を聾する騒ぎがあって
あの恐ろしい声で 痛ましく叫んでいた
でも「火事だ、火事だ」と叫ぶ恐怖に満ちた音が
どうか わたしの欲望であると誰も気づかないように
わたしは飛び起き 火を見て
わが神に わが胸が叫んだ
どうか 悲しみの中でわたしを力づけてくれるよう
どうか わたしを見捨てないようにと
それから 外に飛び出すとすぐ
炎がわたしの住まいを焼け尽くすのを見た
家が跡形も無くなったとき
わたしは 与えては奪ってゆく神の名を
わたしの品々を灰燼に帰した者の名を讃えた
ええ そうなのです それが正しいのです
あれは 神のものでした わたしのではありません
わたしが文句を言うなんて とんでもない
神は 正しく 全てを奪い去ってもよかったのに
なお十分なものを わたしたちに残している   (1ー20)

ここまでで、ピューリタン的な考えを示して余りある。だが、ほんとうにここで終わ
っていたのならば、20世紀も終わろうとする今、わざわざ彼女の作品を読み直す価
値はない。むしろ、この正統的な宗教観を提示した後、なお納得できない個人的な声
が出現する点に、アメリカにおける新しい文学の誕生を確認すべきだろう。この声は
、実は、すでに第5、6行目でも<「火事だ、火事だ」と叫ぶ恐怖に満ちた音が / 
どうか わたしの欲望であると誰も気づかないように>に示唆されているのだが、「
欲望」は、所有欲、自己愛、この世のものへの執着と言い換えてもよい。この「欲望
」と「正義」とをめぐるドラマが以下に展開する。決着は、もちろん、「正義」の勝
利に終わるのだが、このドラマの中で注目すべきなのは、自我の分割による「わたし
」と「おまえ」という人称詞のあいだの愛と諭しの緊張である。

焼け跡のそばを通り過ぎるたびに
わたしは 悲しげに横目で見る
そして そこここに かいま見るのは
わたしが座ったり しばし休んだりした場所でした
ここには あのトランクがあったし あそこには あのタンスがあった
そこは わたしが一番大切にしていた宝物があった
わたしの楽しい持ち物が灰となり
もう わたしは 何も見ることができない
もう おまえの屋根の下に お客が座らず
おまえのテーブルで 食事をすることもない
もう楽しい話が 語られず
昔繰り返した話ができない
蝋燭も もう おまえの中で燃えないだろうし
花婿の声も もう 聞こえないだろう
沈黙の中に おまえは これから住むのだろう
さようなら さようなら すべては虚しい    (21ー36)


この引用で、「おまえ」の指示する内容は、じぶんでありながら、「家」でもある。
したがって、ここに、女の意識に前提として潜む「わたし=家」という考えや、女が
母であり、家そのものであるという思いがあからさまに出ている箇所として興味深く
読んでもよい。作品中の「わたし」は、悲しみにふけっている。失ったものを心から
惜しんでいる。彼女の心には思い出が溢れてきて、かなり否定的な意味で、全てが虚
しいと断言する。この後に、何が起こるのであろうか?
彼女は、人称詞によるトリックを用いて、おのれの救済へと向かうのだ。「おまえの
屋根」や「沈黙の中に おまえは これから住むのだろう」で呼ばれる「おまえ」と
は、繰り返すが、「わたし」のことであった。いったい、だれが、このように、じぶ
んを「おまえ」と呼び返す地平に立つことを許したのであろうか。ギリシャ神話のナ
ルシスの話を思い出すなら、水面や鏡など反射する物であってよい。しかし、ブラッ
ドストリートの場合には、神であった。

それからすぐに わたしは わたしの心をしかり始めた
だって おまえの富は この世にあったのだろうか
おまえの希望を 朽ち果てる塵埃に置いていたのか
・・・
おまえは 天上の高みに立つ家を持っている
それは あのしっかりとした建築家に枠取られ
栄光で豊かに飾られている
この世のほうは すぐに取り払われるかもしれないが あの家は 永遠に建つ
・・・
富は十分にあるのだから 何ももう わたしに必要ない
さようなら わたしの泡銭よ さようなら わたしの蓄えよ
この世を もはや わたしに愛させないで
わたしの希望や財産は 天上にあるのだから    (37ー最終行)

作品中の「わたし」は、「わたしの欲望」(5ー6行目)を隠しておかねばならない
ので、初めは、公式見解を述べている。もちろん、隠しておかねばならないと言明す
ることで、実は、露見させているのだが。この「欲望」は、21行目以下で分かると
おり、焼け落ちた家の跡地を通り過ぎる度に、彼女の心の中に悲しみと思い出をこみ
上げさせる。彼女は、家が焼け落ちて財産や家具、宝物が失われるのを、正直に悲し
んでしまう。「わたし」は、だが、その一方で、神の計らいを恐れているし、この世
の全ての財産は全て、神に属することも知っている。そこで、失った財産を嘆くじぶ
んをカモフラージュして、むしろ、神の側に立って神の計らいを知らしめるために、
第37行目で「わたしの心」を「おまえ」と呼び直して叱られ役とし、「わたし」そ
のものは救済してゆく。この手順を、わたしたちは、自己分割による正統回帰と名づ
けてよいだろう。なぜならば、第2人称「おまえ」は、それまで財産の喪失を嘆いて
いた「わたし」の分身に他ならないのだから。「おまえ」の導入によって、個人の欲
望・物欲・悲しみを、「おまえ」が「わたし」に代わって引受けているので、「わた
し」は、これを叱り、ピューリタンの公式見解を伝え、神の計らいを全て、神の恩寵
として受け入れるようにと第2人称へ命令することで、結果として、第1人称が神の
側に立ち、最終的な神との合一を暗示する。これを、あるいは、自己内の対話と言う
べきだろうか。最後、未練を残しつつも、神のもとへ復帰する。
以上の事情を逆にとらえるならば、最終的には切り捨てて行く、他者としての「おま
え」の出現のためには、「彼=神」が必要だったと考えることが出来よう。本来ある
べき自己は、単なる対立や葛藤から導き出されるのではなくて、しかるべき拠りどこ
ろが既にあることを、その条件とする。すなわち、神の定立を前提とすることによっ
て、〈他者〉を自己のなかに確立する道が開けるのだ。ここでいう〈他者〉とは、じ
ぶんと異質でありながら、じぶんの中に存在する者を意味する。この〈他者〉は、正
義の在処を不問にすれば、じぶんと同様に自由で対等である。対等であるからこそ、
すでに14ー20行で確認されているはずのピューリタン的な公式見解を、最終部分
でも繰り返さざるを得ない。この反復によって、内面の葛藤を宥めや諭しとして昇華
してゆく。同時に、ピューリタン的なタイポロジーの発想を現出させている。(30)
たしかに、アン・ブラッドストリートの創作は、世俗と聖なる救済のあいだにおける
葛藤であると、あらためて確認してよいが、神の教えに復帰することを最終の到着点
として、初めから、思い描いているからこそ、彼女は、思う存分に、失われた財産へ
の嘆きや悲しみをうたえたし、「夫への手紙」(31)で分かるように、神に許され
た結婚制度の中だからこそ、思う存分に、セクシャルな表現も出来たのだと指摘でき
る。しかし、これは、真理の一面にすぎない。もうひとつの面は、最終目標がじぶん
の中で了解されていながらも、つねに、目標に向かってゆくことを試みなければなら
なかったほどに強い彼女の世俗的な欲望であり、この欲望を「おまえ」と定立してい
かに宥めるのかが、彼女の創作の原動力のひとつであった。

6 現代を照射するブラッドストリート
ここで解明した「わたし」、「おまえ」、および、「彼=神」の3極構造は、矛盾を
はらんでいる。精神病理的に言えば、西欧において多い精神分裂症の原義を、この作
品は、原理的に説明しているとも言えよう。また、19世紀ホイットマン詩学におけ
る第1人称と第2人称のドラマを予見しているのかもしれない。あるいは、宗教的な
空間を考えてみると、「わたし」と「おまえ」は、この地上に存在し、「彼=神」は
天上にいるのだろうが、その3者を同時に設定し得るということは、同じ位相の空間
に3者が属しているということでもあるから、もしも、「わたし」がほんとうに「彼
=神」と合一を果たせると考えるのならば、あと一歩で、<神=人>説へ向かうこと
になるだろう。そして、この説は、最終的には、前提であったはずの神の否定を孕む
恐れがある。もちろん、この一歩は、大胆でかなり勇気の必要な一歩であるから、実
際にこの一歩を踏み出す者が出現するには、あと、200年ほどを待たなければなら
なかったが。 --------------------
注
(0)アン・ブラッドストリートの作品はすべて、Anne Bradstreet,The Works of A
nne Bradstreet, ed. Jeannine Hensley ( Cambridge: Harvard UP, 1967)から、WAB
と表記されて、引用される。
(1)1650年にロンドンで出版されたこの詩集の正式な名称は、Tenth Muse Lat
ely Sprung Up in America:である。(Cf. Anne Bradstreet, The Tenth Muse (1650)
and, from the Manuscripts, Meditations Devine and Morall together with
Letters and Occasional Pieces, Facsimile Reproductions ed. by Josephine K.
Piercy (Delmar, NY: Scholar's Facsimiles and Reprints, 1978)。
(2)詳しくは、Raymond F. Dolle, Anne Bradstreet: A Refrence Guide, (Boston
: G.K.Hall, 1990)を参照のこと。
(3)Ann Stanford, Anne Bradstreet: "Dognatist and Rebel,"New England Quart
erly  39 [1966], 373-89; Wendy Martin, An American Triptych, (Chapel Hill:
U of North Carolina P, 1984) 4-5.
(4)Cf. Moses Coit Tyler, A History of American Literature: During the Col
onial Period 1607-1765 (1878), (New York: The Nickerbocker P, 1904) 291.
(5)Theresa Freda Nicolay,  Gender Roles, Literary Authority, and Three Am
erican Women Writers: Bradstreet, Warren, Ossoli.  New York:Peter Lang, 1995.
(6)Robert D.Richardson, Jr., "The Puritan Poetry of Anne Bradstreet," in 
The American Puritan Imagination: Essays in Revaluation, ed. Sacvan
Bercovitch, New York: Cambrigde UP, 1974: 107-122.
(7)Jeffrey A.Hammond, Sinful Self, Saintly Self: The Puritan Experience o
f Poetry, Athens and
Lond






Terms, History, Biography, etc, etc. ( London: Cassell & Co., 1891).
(10) Edmund S. Morgan, Visible Saints: The History of a Puritan Idea (Ne
w York: New York UP, 1963), 64, 96-98.
(11) Morgan, Visible Saints 69, 88-91; Patricia Caldwell, The Puritan Co
nversion Narrative, Cambridge: Cambridge UP, 1983), 1-3.
(12)「エリザベス女王を讃えて」( "In Honor of that High and Mighty Princ
ess Queen Elizabeth of Happy Memory,"WAB 196)
(13)「最も高貴な父へ」("To her Most Honoured Father Thomas Dudley Esq.
These Humbly Presented,"WAB 13)。
(14)「英国へゆくわたしの大切な愛する夫へ」("Upon my Dear and Loving Hus
band his Going to England Jan. 16, 1661," WAB 265)。
(15)"Contemplations" WAB 204-14, "As Weary Pilgrim" WAB 294-95.
(16)David Leverenz, The Language of Puritan Feeling: An Exploration in L
iterature, psychology, and Social History, (New Brunswick, NJ: Rutgers UP,
1980) 153.
(17)"To my Dear Children" WAB 243.
(18)Nicolay 19。
(19)Cf. "deism" in Encyclopedia Americana, CD-ROM, Danbury, CT: Glorier 
Electronic, 1995.
(20)WAB 243-44.
(21)Willard Spiegelman,The Didactic Muse: Scenes of Instruction in Conte
mporary AMerican Poetry, (Princeton: Princeton UP, 1989) 6.
(22)Hammond 93-100.
(23)WAB 259-60.
(24)Roy Harvey Pearce, The Continuity of American Poetry (Princeton: Pri
nceton UP, 1961), 41.
(25)Edmund S.Morgan, The Puritan Family: Religion and Domestic Relations
in Seventeeenth-Century New England, (New York: Harper and Row, 1966)
48-49; Ann Stanford, "Anne Bradstreet: Dogmatist and Rebel," Critical
Essays of Anne Bradstreet ed. Pattie Cowell and Ann Stanforded.,  (Boston:
G.K.Halls, 1983) 81.
(26)"In Reference to Her Children" WAB 234.
(27)"Before the Birth of one of her Children" WAB 224.
(28)"To My Dear and Loving Husband" WAB 225.
(29)"Here Follows some Ferses upon the Burning of our House July 10th, 1
666.  Copied out of a Loose Paper," WAB 292-93.
(30)タイポロジカルな反復は、「瞑想」("Contemplations," WAB 204-14)や「孫
エリザベス・ブラッドストリートの思い出に」("In Memory of my Dear Grandchild 
Elizabeth Bradstreet, Who Deceased August, 1665, Being a Year and Half
Old," WAB 235)などにも見られる。
(31)"A Letter to her Husband, Absent upon Public Employment," WAB 226。

アメリカの暗い情熱 ―エドワード・テイラー再読


この論文は、エドワード・テイラー関する研究動向と、彼の生きたアメリカ植民地
時代の宗教動向を簡単に概観した後、これまであまりにも有名であるために批評対象
としては無視されがちだった「主婦仕事」("Huswifery")を中心にしながら、エドワ
ード・テイラーの再読を行おうとする。この時、彼の中に潜む、暗い情熱としか言い
様のない無意識裡のドラマを明らかにし、結果として、現代のアメリカにも通ずると
思われるような問題点を、実は、ピューリタンの時代からアメリカが抱え込んでいた
ことを指摘できればと思う。

1遅れてきた詩人エドワード・テイラー――これまでの研究動向
 エドワード・テイラー(一六四二?ー一七二九)は、「植民地時代における最大の
詩人」、ないし「一九世紀以前の最も偉大な作者」と絶賛されてきた。(1)しかし、
この絶賛は、彼の草稿が発見された時期と密接に絡み合う。
 一九三七年、植民地時代のアメリカ文学史を塗り替える事実を発見し発表したのは
、トマス・H・ジョンソン「エドワード・テイラー: ピューリタンの『聖なる詩人』


」という論文であった。(2)この年、既にスペイン内乱が二年目に入っており、また
、ヨーロッパを席巻しようとするナチス・ドイツに直面して、アメリカ合衆国は、外
交上の具体的な選択や決定は別にして、理念的には、後に連合国側となる国々と共に
、平和と民主主義を守る立場にあり、国内においても、アメリカの伝統的な理想を再
確認しつつある時期であった。したがって、アメリカのアメリカたる由縁を示すよう
な全ての事柄が、合衆国において歓迎されたと言っても過言ではない。こうした国民
的な雰囲気の中、イェール大学で植民地時代の牧師エドワード・テイラーの残した詩
作品の草稿が発見された時、学界は、画期的な発見というよりも、賛辞で迎えるべき
センセーショナルな事件と見なした。したがって、文学史的に厳密である以前に、何
らかの臆断や歓迎の意向が、テイラーの評価に影響を与えたとしても不思議はなかっ
た。二○○年後に、植民地時代の詩人が「発見」されることは、「アメリカ」誕生の
挿話として「アメリカ」史を飾る。自らの誕生に関する甘美な思いを、誰も拒否でき
ないし、する必要もないだろう。(3)
 このテイラーの出現をさらに神話化したのが、出版をめぐる彼の遺言である。公表
を拒否するとの遺言は、言説やその表現を至上のものとして評価しがちなアメリカ社
会へのアンチ・テーゼとして、かえって、神秘的な色彩を帯びる。この遺言は、ジョ
ンソンの論文に明記され、ペリー・ミラーもこれを追認して以来、アメリカ文学の神
話のひとつとなる。そして、批評家や学者たちが様々な憶測をめぐらしてゆく。(4)
 一九三九年にジョンソンの編集によって、テイラーの詩作品が出版されたが、(5)


彼の編集方法に対して批判が出た。ジョンソン版は、『神の決意』(Gods Determina
tion)を全て収録したが、『備えとしての瞑想』(Preparatory Meditations)に関
しては、一二八篇のみを収めたので、ルイス・L・マーツは、テイラーの詩人として
の姿を、間違いではないにしろ不完全なものとして提示していると非難した。草稿を
読み解く作業に関しても、ジョンソンの全てが信頼できるものではない。たとえば、
『備えとしての瞑想』というタイトルをめぐってさえそうである。(6)
 シドニー・リンドは、かなり、批判的にテイラーの「発見」、および、彼の作品に
接した。彼によれば、ピューリタニズムを神学的・文化的に読み解く作業の中に位置
づけられるべきテイラーの作品は、植民地時代の詩選集に選ばれてよいけれど、しか
し、学会を騒がして、「発見」後一○年も経たずに、いわば、テーラー批評産業を成
立させるほどの詩人ではないと断言する。仮定としてテイラーの作品が存命中に印刷
されていたとすれば、一九世紀あたりで一度再版されるかもしれないが、その後は、
膨大なアメリカ文学史の中で数頁を与えられて、安息を楽しんでいたに違いないと推
測している。(7)
 これまでの批評は、主として、詩作品とくに彼のメタファーを中心に展開されてき
た。神との永遠の合一に生きることを熱望したテイラーは、プロテスタントが持つ言
語中心主義、キリスト中心主義という伝統の中に位置づけられる。彼にとって、キリ
ストが言語であり、人間の言語活動が、この偉大なる、肉体化された原テキストを読
む作業として捉えらえる。言語とは、身体化された真理を理解し表現するもの、償い


を保障するはずだが、未知のものを既知のものに結びつけ、じぶんの教会の会衆たち
とコミュニケーションを図ろうとして、彼は、言語の限界に気づき、結局、神の恩寵
に全てを預ける。人間の言語は、いかなる神性をも表現できないのだから。人間こそ
が、キリストの生きたメタファーであらねばならないのだが、人間であるゆえに、か
ならず、失敗する。人間は、したがって、キリストの肉体の一部となるために、彼の
恩寵にこそ頼らざるをえない。
 作品の評価に関して、『神の決意』は、宗教思想を韻文化したに過ぎず、『備えと
しての瞑想』こそがエドワード・テイラーの主要な詩作品として残るであろうと言わ
れている。これまで、テイラーの散文は、会衆に発表されたため、よく練られた議論
に溢れる公的なものであり、他方、詩作品は、神以外に聴衆を持たず、叙情的、連想
的、瞑想的で私的なものだと考えられてきた。しかし、メタファー観や聴衆観の同一
性を探る中で、最近、彼の散文(説教や日記など)と詩作品の類似性を研究の対象と
する論文が多くなってきたが、詩作品で主として取りあげられるのは、『備えとして
の瞑想』である。小品は、前述のジョンソンの画期的な論文が「主婦仕事」を始めと
して五篇紹介し、それ以来、愛されてはいるが中心的な作品とは見なされていない。
たとえば、グラーボによれば、「主婦仕事」は、テイラーの作品の中で最も有名だが
、最高の作品ではないと言う。最近は、中世の伝統的な錬金術との関連で、彼の詩作
を位置づける論文も出現している。これは、最終的には、ピューリタニズムの中に潜
在するルネッサンス的、錬金術的、また、パラケルスス的傾向を読み当てようとして


いるのだろう。(8)

2歴史の中のピューリタニズム――テイラーの時代(9)
 カルヴィニズムは、罪人は一陣の嵐によって連れ去られ、恩寵から全てを剥奪され
ているので、救済を期待することも再生の印を求めて自己の内面を覗くこともできな
い。真の回心の時まで、人間は、精神的には虚無に過ぎないので、審判の時に「備え
る」ことはできないとした。カルヴィン自身、「備え」という考えそのものを忌避し
た。人間の側のいかなる努力も、聖霊の贈り物を受け取りやすくするわけではないの
だから。
 これに反して、ピューリタンたちは、人間は全く剥奪されてはいるが、それでも恩
寵へ備えることができると考える。備えたからといって、しかし、自らの回心と救い
を左右することはできないことも前提とはしていたが。「備え」とは、実に、ニュー
・イングランドでの主柱であった。ピューリタンたちによれば、この世に生まれた人
間は、神託を露にすることも、その本性の力でキリストを選ぶこともできないが、し
かし、人間の側から律法にわずかずつでも応じることができる。したがって、予定調
和と一致すると信じていた「備え」と言う言葉が意味するのは、神によって明らかに
された言葉の光りの中で行う、引き延ばされた内省と自己分析である。この最も印象
深い例が、エドワード・テイラーの『備えのための瞑想』である。これは、救済を操
作する手段として、偏執的にプロセスを使う、無限に引き延ばされた危機の典型とい


えよう。逆説的に言えば、この危機は解決するためではなく、むしろ、解決の引き延
ばしによって自我の野蛮な性癖へ枠を填めることに、その目的があった。
 ピューリタニズムほど、恐怖・疑惑・絶望の問題に関心を寄せた宗教活動は無いし
、内面生活の葛藤をそれほど綿密に叙述する宗教活動も無いと言われる。ピューリタ
ンたちは、膨大な量の日記を付けたが、そのほとんどは、じぶんの信仰に関する疑念
の克服や自己省察に向けられていた。とくに、聖職者たちによって、あらかじめ記述
されたうえで語られる説教は、週日、人びとを地獄の業火に投げ入れ続けた。彼らは
、タイポロジカルな発想により、ジェレミア(エレミア)とその民に起きた過去の実
際の出来事が予兆となって、じぶんたちにも、同じ事態が発生したと仮想した。ジェ
レミアの嘆きを引き起こした原因は、捕囚が現実に起きたためだが、アメリカン・ピ
ューリタンは、起こるかもしれない堕罪を現実と仮想して嘆いたと言ってよいだろう
。したがって、この嘆きは、人びとへの威嚇として機能する。これが、ピュータンの
レトリックであった。
 一応信仰を告白して、基本的な教義を理解し、神に適うような行いをしている限り
は教会員として迎えていた、それ以前の改革教会と違って、ニューイングランドの組
合派教会は、一六四○年までに、メンバーになろうとするすべての者に、教会員全員
の前で、単に教義上の知識や信念ではなくて、試練が含まれる回心の経験を語たるよ
うに求めた。(10)これは、神に不適な牧師たちや信者たちを教会や主の晩餐から閉め
出す一方で、「目に見える聖人たち」を同定しようとしたためだが、この「目に見え


る聖人たち」とは、魂に恩寵の嵐を経験し、この事実を他の聖人たちの満足がゆくま
で明示できる者たちを意味した。おそらく、真の回心と誠の救済への信仰を持つ証拠
を要求したのは、彼らがアメリカへ渡ってきた経験を共有していたためだろう。この
語りにおいて、あまりにも完璧な確信を示したりすると、回心は脆いのではないだろ
うかと疑われた。正しい救済の確信とは、常に確信を疑うことにあった。確かである
ためには、不確かであること、これが、ピューリタン信仰の核心であった。
 回心の語りにもとづく教会への参加制限は、幾つかの問題点を持っていたが、その
最も致命的な点は、教会員の人数が減ることである。最初、ニューイングランドの教
会員(組合員)は全て主の晩餐に参加したが、一六五○年頃から、この参加者が著し
く数を減らし始めたので、参加の条件を緩めようとする動きが現れた。結局、この問
題を解決するべく、一六六二年にマサチューセッツ大法廷が宗教会議を招集し、そこ
で、ピューリタンの子どもたちの中の「信仰の存在」が認知された。理由は、彼らが
約束の地に生まれたからである。同時に、洗礼対象の拡大を図る条項も決定された。
この結果、「半教会員」ないし「半契約」という新しい区分が生まれる。(11)この区
分に属する人たちは、洗礼を受けてメンバーとなり、教会活動に携わるが、主の晩餐
への参加と教会関連事項に関す投票権が無かった。また、彼らは、回心の証拠を示す
必要がなかった。
 一六六二年の宗教会議の決定は、一方では、第二世代以降を信仰へ導く可能性を生
むが、他方では、結果として、主の晩餐に不完全な回心者を招き入れることになる。


したがって、非回心者の子供たちに洗礼を認めることは、結局、親である非回心者た
ちにも、主の晩餐への参加を認めざるを得なくなるのではないかという危惧を、少な
からぬ聖職者が抱いた。彼らは、ニューイングランドの純粋さとその使命を空洞化す
るのではないかと恐れた。他の幾人かの聖職者は、逆に、半契約の不徹底さに不満を
持った。特に有名なのは、マサチューセッツ州ノーザンプトンの牧師で、後にジョナ
サン・エドワーズの祖父となるソロモン・ストダードである。彼は、半契約の実効性
に疑問を持ち、一六六二年の宗教会議の決定よりも更に、主の晩餐の自由化を図った
。彼は、一六七七年には、半契約の考えだけでなく教会契約の概念そのものも放棄し
て、信仰信条を受け入れる者は大人も子供も全て洗礼を施すし、たとえ回心の経験が
無くても信心深い者は全て、主の晩餐に受け入れると宣言した。この考えは、ニュー
イングランドをカルヴィンの考えへ戻そうとしたと言えよう。
 エドワード・テイラーが大西洋を渡ったのは、アメリカの植民地がこうした議論に
沸いていた頃であった。スタンフォードによれば、(12)彼は、一六六○年王政復古の
時、一八歳前後であり、クロムウェル時代に彼のピューリタン的な性格と確信が形成
されたと言ってよい。しかし、チャールズ二世が王位に戻ったので、将来の希望を失
う。教職に就くはずであった彼は、一六六二年の「統一令」に応じることを拒み、教
えることも説教することも、また、ケンブリッジやオクスフォードなどの大学に入学
することもできずに、迫害や追放の恐れに悩まされる。ついに、一六六八年四月二六
日、イングランドを発ち、アメリカに船出した。


 ジョンソンやリンドが認め、スタンフォードが証明したように、(13)テイラーは、
ピューリタニズムの正統派であった。彼は、一六六二年宗教会議の決定を全面的に受
け入れ、「半契約」制度と主の主の晩餐を守る立場から、既に改心を果たした教会員
にのみ主の晩餐出席が許されるべきだと主張し続けた。テイラーがウェストフィール
ドに赴任したのは、一六七一年だが、正式に牧師に任命されたのは、一六七九年八月
であった。ウェストフィールドは、住民が三○名にも満たない小さな毛皮貿易の中継
点だったが、他のニューイングランドの大多数の町と同様に、正式な教会員、半契約
の教会員、及び、教会には出ないか出られない人たちという三つの区分からなってい
ただろう。したがって、聖人ないし神に選ばれた者を強調するために、どうしても、
テイラーは、罪及び罪人を強調する方向を選ばざるをえなかった。
 テイラーは、八○年代から説教の中や「主の晩餐に関する論文」(一六九三ー九四
)で、ストダードに論争を仕掛けている。しかし、彼は、一六三○年代アメリカン・
ピューリタンの原思想とも言うべき厳密な洗礼へ戻ろうと主張するわけではなかった
。この主張は、後にストダードの孫にあたるジョナサン・エドワーズが、ストダード
の考えを捨てて、半契約の教会員を主の晩餐から閉め出すだけでなく、洗礼もまた、
聖人とその子どもに限ると宣言した時に復活するのであるが。テイラーは、じぶんが
聖職に任命されたときに主流であった考えを採り、聖職者としてそれに固執した。こ
れは、大いに、彼の頑固で保守的、かつ、優柔不断な性格にもよったであろう。(14)
 しかし、ピューリタンたちの第二世代以降をいかに宗教活動と信仰の道へ引き込む


かが、ニューイングランドにおける焦眉の課題であったため、主の晩餐の自由化を目
指すストダードの主張が、他の教会によって次々に受け入れられゆく。結局、テイラ
ーは、三○年以上にも渡って、ストダード主義を批判し続けたが、次第に、正統を守
る孤島となっていった。テイラーが老齢となり影響力を行使できなくなった時、すな
わち、彼が死ぬ一年前、ウェストフィールドの教会は、投票によって、ストダードの
実践を採用する決定を下した。
 以上の概括を踏まえれば、エドワード・テイラーが正統だと信じていた洗礼対象や
主の晩餐参加の条件に関する考え方も、実は、移り変わるピューリタニズムの歴史に
現れて捨てられてゆくひとつのドグマにすぎないことがわかる。彼は、ストダードが
示した新しい考えに断固として反対したが、ストダードからは反駁するに値する論者
とはみなされず、反対論は、インクリーズ・マザーによって代表され、テイラーの意
図にも関わらず、テイラーの説教は出版されなかった。

3メタファーの裏切り――「主婦仕事」について
 テイラーの天職としての牧師と、天禀としての詩人との関係は、かなり錯綜してい
る。ピューリタン的に考えれば、神も作者も共に創造に関わるので、神に仕えること
と、詩作品を創造することは、矛盾する。ひと時にしろ、創作をしている間は、自ら
が一種の神になることに他ならず、ピューリタンの信仰にとって、許されざる罪にな
る。(15)彼は、詩人として、「信仰の喜び」をうたうのではなく、「信仰の喜び」を


うたう喜びをうたおうとした。テイラーにおいて、現実には、詩作と説教が表裏一体
の関係にあった。これは、発想や文体において詩作と説教とに多くの共通点があるだ
けでなく、さらに実際的な意味で、詩作をするから説教ができ、説教をするから詩作
ができるという補完関係にあった。実際、牧師の職を辞めると同時に、詩作を放棄し
ている。(16)
 六行一連で全三連からなる「主婦仕事」は、ノーマン・グラーボによれば、一行一
○シラブル、脚韻ababccの構成なので、『備えのための瞑想』と同じ形式であ
るから、「主婦仕事」も、主の晩餐に「備え」るためであるとする。(17)この作品中
の「わたし」は、糸紡ぎから機織りを経て仕上がる服装を身にまとい、神の栄光を讃
え、神との合一を果たそうとするが、全て、神へ一方的に呼びかけてゆく。たとえば
、第一連は、次のようになっている。(18)

わたしを、神よ、あなたの完璧な紡ぎ車にしてください
 あなたの聖なる言葉が、わたしのため わたしの糸巻き棒に
わたしの愛を、あなたの素早く手際良い糸撚り機に
 わたしの魂を、あなたの聖なる糸巻きに
 わたしの言葉を、あなたのかせ枠にしてくださり     5
 紡ぎ糸を、あなたの紡ぎ車に巻き上げてください

しかし、どうして、こうした呼びかけが喜びであり、また、神へじぶんの声が届くと
思えるのだろうか、そして、いつ神が答えるのだろうかと、ここで問うことは控える
べきだろう。一生をかけて、答えぬ神へ呼びかける人びとの時代から、救済確信の喪
失や現実への絶望などにより「神への不信」「神の沈黙」が始まる時代へ至るまで、
なお、一世紀半以上の歳月が必要である。今は、まだ、ピューリタンの時代であり、
引き延ばされた神への接近こそが、信仰や救済の確信につながると思われていた。
 ここで注目すべきことは、「わたし」と「神」を結ぶイメージとして、「糸」およ
び「糸」関連の言葉が使われている点である。テイラーが織物製造工程に関してよく
知っていたのは、英国とアメリカで普通の家庭内の仕事だっただけでなく、彼の生地
レスターシャが織物産業地に近かったためだろう。「紡ぎ車」によってできる六行目
「紡ぎ糸」(yarn)が、七行目「撚り糸」(Twine)となり、「機織り機」を通って
九行目「織り布」(Web)になる。これを「 機」(織った布を洗って、密にする機械
)へ通した後、染め上げられ仕立て上げられたのが、一七行目「衣」(apparell)な
いしは一八行目「清い衣」(Holy robes)である。これをまとった「わたし」が、「
神」の御前に「衣」を示す。この工程は、一連のものであり、そのひとつを強調すべ
きではない。(19)

それから、わたしを、あなたの機織り機にして、この撚り糸を編んでください
 あなたの聖霊に、神よ、糸巻きを回させて、


自らの手で織り布を織ってください 紡ぎ糸はすばらしいのです
 あなたの御命令が、わたしの縮絨機となります         10
 天上にふさわしい色で 鮮やかに染めあげて、
 衣全体を、天国の美しい花ばなで飾ってください

それから、わたしの理解、意志、
 心、判断、良心、記憶を
わたしの言葉と行いを、その衣でおおい、それらの輝きが     15
 わたしの道を賛美で満たし、あなたを讚えるようにしてください
 そうすれば、わたしの衣があなたの前にきらびやかに広がり、
 わたしが清い衣におおわれて あなたの栄光を讃えるでしょう

この作品の趣旨は、神の霊が人を動かし、神の前に出るための準備の仕事が行われる
という点にあり、「糸」および「糸」関連の名詞は、「わたし」と「神」を結ぶ媒介
として使われているので、これらには所有代名詞が無い。言葉遣いにこだわって、六
、九、一一、一三行目を読めば、紡ぎ車を回し、機を織り、染めあげ、「わたし」に
服を着せよと、「わたし」が「あなた」すなわち「神」に命じている。一方、「わた
し」は、「神」の必要とする道具に変ずる。すると、なぜ、道具に冠する所有名詞の
使用方法が一貫していないのだろうか。この一連の工程を実際に行う者は、「神」な


のだろうか。また、結局、タイトル「主婦仕事」が暗示するのは、「神」が「主婦」
であり、「女」であるということだろうか。
 こうした問いを手がかりに作品を読み直すと、糸紡ぎや機織りは、伝統的に女の仕
事であり、また、作品中で一連の工程に必要な道具類は、ほとんど「あなたの」もの
とされているが、しかし、「糸巻き棒」「縮絨機」および「衣」は、「わたしの」も
のである。「糸巻き棒」(distaff)は、手に持って糸を繰る道具であるから、これ
は、「わたし」の行う工程を意味するだろう。そして、この単語には、「女の仕事」
、転じて「女性」という意味がある。『聖書』でも「糸巻き棒」を持つ者は、妻であ
ったし、テイラーも、もちろん、機織りは女の仕事だと考えていた。(20)また、「縮
絨」は、織布の品質を決める重要な中間工程である。ここで、織った布を洗って密に
し、「染め」へ向けて布地として完成させる。最後の「衣」は、もちろん、一連の工
程の完成品であり、しかも、ピューリタンの「男」なら身につけるはずのない「天国
の美しい花ばなで飾られた衣」であった。すると、「あなた」ではなく、「わたし」
が女だと考えるほうが合理的にも見えて、結局、この作品は首尾一貫性しないことに
なる。しかし、急いで付け加えなければならないが、詩作品が詩作品である限りにお
いて、かならずしも首尾一貫する必要はない。矛盾や混乱があってもよい。これは、
素材やテーマや文体などあらゆる点において、そうである。問わねばならないのは、
むしろ、そうした矛盾や混乱が何を伝えるかということだ。
 この作品の中心のメタファーは、「清い衣」だと多くの批評家が考えているが、(2


1)そうではなくて、糸紡ぎから始まって最後に衣服を創造する一連の織物工程である
。ピューリタンは、人間の自発的な意志や行動を否定し、神の予定調和に従うことを
目指していたので、「衣」創造の作業すべてを「神」に委ねて、「わたし」が一切の
道具と成り下がってよいはずであった。しかし、それでは、「人間」として「神」の
御前に現れる可能性が排除され、かつ、「神」を「女」としてしまう。このディレン
マが、メタファーの首尾一貫をテイラーに避けさせて、一人称所有代名詞「わたしの
」を恣意的に使用することによって、創造の工程へ「わたし」を部分的に参画させる
ことになる。この操作によって、テイラーの意図としては、神の力や栄光の賛美を目
指したのだろうが、しかし、言語表現が、逆説的に作者の意図を裏切ることになる。
なぜならば、ピューリタンの女でも着ないないほどきらびやかな花柄の衣服を身にま
とう「わたし」が、受け入れてほしいと「神」を讃えながら、その前に姿を見せる作
品の終わり方に、衣服倒錯症とホモセクシャルな傾向とを、二○世紀末の読者に読み
とらせてしまうためだ。(22)
 牧師という地位を除けば、エドワード・テイラーは、ジェントルマンではなく、そ
こそこのヨーマンに属している。(23)しかも、彼は、牧師であったから、衣服に関す
る社会の戒めを率先して実行するだけでなく、教会員のきらびやかな服装を戒めてい
ただろう。しかし、作品の中で、じぶんが神に選ばれるゆえに、俗世の戒めを破り、
そうした服装をじぶんに許した。こうして、「主婦仕事」は、圧倒的に個人を統制・
支配する者(男性)へ同一化を果たそうとして、無意識に女性的になる一例を示して


いる。文学史的には、テイラーの作品は、一七世紀というかなり早い時期に、アメリ
カにおける抑圧された無意識裡の性問題を暗示したと言えよう。

4衣服倒錯症とホモセクシャルな傾向――ピューリタニズムの抑圧
 「主婦仕事」の読解において、糸紡ぎや機織りを「主婦仕事」と定義しながら、夫
の姿や存在が暗示されていないので、夫のいない寂しい家=神不在の教会を象徴する
などと判断するのは、牽強付会であり、第一、この作品の作者が男である伝記的な事
実を無視している。しかしまた、男が女を装う虚構性、あるいは、「神」を女とみな
す荒唐無稽さを、植民地時代のアメリカ文学に発見しようとするのは、あまりにも不
合理である。むしろ、そこではメタファーに強いられた結果として、無意識に、男が
女を装う虚構性を潜在させ、男の中にある女性原理が抑圧された形で展開したと考え
るべきだろうし、この無意識とは、「神」との関係において解かれるべきだろう。
 「主婦仕事」のタイトルがまさしく「主婦仕事」である限り、「主人ー下僕」でも
「父ー子」でもなく、「夫ー妻」の関係を「あなた(=神)ーわたし」の関係に投影
できるはずだ。この判断は、テイラーの他の作品に見られる同様の例によって、補強
される。たとえば、『備えのための瞑想』I:37(24)は、神とじぶんの関係を家族
関係で読み解くことを許している。その副題「あなたはキリストのものです」は、「
コリント人への手紙1」三章二二節から採られており、31から37まで、主として
この節をめぐって、全てがキリストのものであることを確認しようとしている。とり


わけ、36から、じぶんとキリストとの関係を問い始め、これにしたがって、家族関
係への言及と性的な表現が出現してくる。そして、37で、

        わたしはあなたの子ども、息子、後継ぎ、つれあいでありながら
        こうした関係が要求できる権利を 何も、もらえないのでしょうか?

と尋ねる。ここで「つれあい」と訳した単語は、"spouse"であり、これは、夫へも妻
へも使う言葉だが、O.E.D. によれば、宗教上の用例は、「神/キリストー教会/女
」に適用されている。したがって、ここで、じぶんを女/妻、キリストを男/夫と暗
示していると判断してよいだろう。次に続く連では、性的、身体的な関係を持ちなが
ら、つれないキリストの仕打ちをかこち、「抱きながら 口づけも たまにしか し
てくれないのですか?」と嘆く。最終2行では、

        ですから堰を開いて、あるものをわたしの上に 射出してください
        そうすれば わたしは心地よくなるでしょう

と呼びかけて、性的な恍惚という解釈を許すような命令形で、この作品を閉じる。
 もともと、『聖書』は、イスラエルを〈花嫁〉と比喩したり、教会を〈子羊の花嫁
〉と述べて、男と女の結婚を比喩として借用しながら、神と信者たちとの一体感を表


現してきた。(25)この意味で、女性は、簡単なレトリックや結婚の比喩で、神との一
体感を表現できる。たとえば、アン・ブラッドストリートは、神の下で、罪人として
の分身を創り出し、これを叱る過程で、おのれを救済した。エミリー・ディキンソン
は、作品番号461で、神との合一をうたうが、そこには、何ら、後ろめたさも暗さ
も見られない。(26)ところが、男は、神との結婚の比喩に忠実であろうとすれば、性
の転換を図らねばならない。ここに、ピューリタンの男の苦悩が潜在する。
 エドワード・テイラーは、男であり、かつ、そのことに誇りを持っていながら、(2
7)二つに引き裂かれている。彼は、社会生活・家族生活の中で、教会制度や家父長制
の上に立つ男、つまり、指導者、牧師としての自我と、神の前で下僕として「女」の
ように愛される分身とを必要とした。テイラーが神に向かう手段は、じぶんが罪人だ
という認識であるが、これには裏付けがない。救われるための過程として、「わたし
は罪人」という神話を必要としているにすぎない。(28)彼の本質的なディレンマは、
じぶんが神に依存し、非常に傷つきやすく、また、受動的である、あるいは、そうあ
りたいという罪人としての願いを満たしながら、なおかつ、いかにして、じぶんが神
に選ばれた力のある支配的な男であると自ら納得できるかということであった。
 このディレンマを解く幾つかの方法が、現在、発見されている。たとえば、女性の
衣装をまとって、男根付きの「女」になることである。(29)これは、牧師の服の下に
、女性の下着を着て、日曜日ごとに説教を行うようなタイプであるのかもしれない。
あるいは、最終的に「父」のようになるよりも、むしろ、「父」に愛されること、じ


ぶんの男性性を放棄して、「女」のように愛されることを選ぶかもしれない。(30)ク
レイグ・オーウェンスは、社会に対して「女はかたるため、自らを提示するために、
男性の立場をとる。女性性が仮装、偽の衣装、擬態や誘惑と結び付けられることが多
いのは、このためである」と述べるが、(31)ピューリタンの男たちは、社会に対する
女と全く逆の方法を、神に対して取らざるを得ない。テイラーもまた、自らを女性に
装って、神との結婚を目論む。
 神との結婚および家族関係という、『聖書』にもとづく比喩から「父」の概念を導
入すれば、ピューリタンとは、「父」たろうとする欲望に溢れながら、「父」たる権
利を永遠に奪われている者たちのことである。ピューリタンは、天上に対しては、「
父」の存在確認を明証的に求め、かつ、「父」からの認知を求める。同胞に対しては
、神の下に平等で民主的であろうとするが、「インディアン」や黒人を含めた「異民
族」、および「女」に対しては、支配的な「父」たろうとする。歴史的には、ピュー
リタニズムも、男尊女卑や異民族蔑視の封建思想を維持してきた。これを理解するに
は、男たちだけが署名した「メイフラワー号」の契約や、一九世紀終わりまで続く「
インディアン」討伐の事実を思いだすだけでよいだろう。
 アメリカ植民地時代、どのような抑圧のドラマが無意識裡にあろうと、男は、女に
仕えさせ、そうして、男に仕える女のように、男は、神に対して仕えたのである。

注


1 たとえば、Russel B. Nye and Norman S. Grabo, ed., American Thought and Wr
iting: The Colonial Period (Boston: Houghton Mifflin, 1965) 292; Robert E.
Spiller, et. al., Literary History of the United States, Third Ed. Revised
(New York: Macmillan, 1963) 65; Albert Gelpi, The Tenth Muse: The Psyche of
the American Poet (Cambridge: Cambridge UP, 1991) 15.
2 Thomas H. Johnson, "Edward Taylor: a Puritan Sacred Poet'"  X, 2, June, 1
937, The New England Quarterly: 290-322.
3 Jeffrey A. Hammond, Edward Taylor: Fifty Years of Scholarship and Critici
sm  (Columbia, SC: Camden House, 1993) 3.
4 Thomas H. Johnson, "Edward Taylor: a Puritan Sacred Poet'": 290, Perry Mi
ller, ed., The American Puritans: Their Prose and Poetry (Garden City, NY:
Doubleday, 1956) 302.  遺言の根拠としては、John L.Sibley, Biographical Ske
tches of Graduates of Harvard University  (Cambridge, Mass., 1881) II, 410
や、"Diary of Edward Taylor," Proceedings of the Massachusetts Historical So
ciety , XVIII, 1880-1881 (Boston: Massachusetts Historical Society, 1881)
5, William B. Sprague, Annals of the American Pulpit (New York, 1859) I,
180など。しかし、フランシス・マーフィは、当時の公文書を調査した上で、彼は、
テイラー自身の遺言が存在しないことを明らかにしている。(Francis Murphy, "Edw
ard Taylor's Attitude Toward Publication: A Question Concerning Authority,"


XXXIV. 3, November, 1962, AL: 393-94)
5 Edward Taylor, The Poetical Works of Edward Taylor, ed. Thomas H. Johnson
(1939) (Princeton: Princeton UP, 1966).
6 Louis L. Martz, "Foreword," The Poems of Edward Taylor  ed. Donald E. Sta
nford (Hew Haven: Yale UP, 1960) xiii. スタンフォードは、イェール大学所蔵の
テイラー草稿を精査して、ジョンソンと違い、詩作品全体のタイトルを"Sacramental
Meditation"ではなく、 "Preparatory Meditations"としている。
7 Sidney E. Lind, "Edward Taylor: A Revaluation," XXI, 4, December, 1948, T
he New England Quarterly: 518-30.
8 Louis L. Martz, "Forward."  William J. Scheick,  "The Poetry of Colonial 
America,Columbia Literary History of the United States ed. Emory Elliott,
et. al. (New York: Columbia UP, 1988)  Thomas H. Johnson, "Edward Taylor: a
Puritan 'Sacred Poet'": 290.  Norman Grabo, "Edward Taylor's Spiritual
Huswifery," 74, 1964, PMLA : 554-60.  Stephen Alfred Woolsey, "My handy
works, are Words, and Wordiness': Edward Taylor and the life of language,"
DAI, vol. 49, no. 7, Jan., 1989; Bonnie Carman Harvey, "A movement toward
the integrated self: Antinomianism reflected in the poetry of Taylor,
Emerson, Dickinson, and Frost," DAI, vol. 51, no. 6, 1990; Yanwing Leung,
"To dash out reasons brains': A poststructurist inquiry into Edward


Taylor's 'Preparatory Meditations'," DAI, vol. 51, no. 10, 1991; Duckhee
Shin, "Christian mysticism in Edward Taylor's poems on the Canticles," DAI,
vol. 52, no. 9, Mar., 1992; David George Miller, "The Word made Flash made
Word: The failure and redemption of metaphor in Edward Taylor's
'Christographia'," DAI, vol. 52, no. 9, Mar., 1992; Karen Joyce
Gordon-Grube, "The alchemical 'golden tree' and associated imagery in the
poems of the Hermetic-Paracelsist philosophy," DAI, vol. 52, no.10, Apr.,
1992; Jeffrey A. Hammond, Edward Taylor.
9 この章は、主として以下の著作、および、神学者塚田理の助言に拠った。Norman 
S. Grabo, "The Poet to the Pope: Edward Taylor to Solomon Stoddard," XXXII,
2, May, 1960, AL: 197-201.  David Riesman with Nathan Glazer and Reuel
Denney, The Lonely Crowd: A study of the changing American character (New
haven: Yale UP, 1961).  Norman S. Grabo, "The Appeale Tried': Another
Edward Taylor Manuscript," XXXIV, 3, November, 1962, AL: 395-97.  Edmund S.
Morgan, Visible Saints: The History of a Puritan Idea (New York: New York
UP, 1963).  Norman Pettit, The Heart Prepared: Grace and Conversion in
Puritan Spiritual Life (New Haven: Yale UP, 1966).  Scavan Bercovitch, The
American Jeremiad (Madison: Wisconsin, 1978).  Patricia Caldwell, The
Puritan Conversion Narrative (Cambridge: Cambridge UP, 1983).  Michael


Joseph Schuldiner, Gifts and Works: The Post-conversion Paradigm and
Spiritual Controversy in Seventeenth-Century Massachusetts (Macon, Georgia:
Mercer UP, 1991).
10 モーガンによれば、これまで、アメリカ植民の初めから回心の語りが行われてい
たと考えられていたが、実は、たぶん一六三四年にマサチューセッツで始まり、次第
にプリマス、コネチカット、ニューヘイヴンへと広がり、イングランドへ逆輸出され
たのだろうと説明する。Edmund S. Morgan, Visible Saints 64, 96-98.
11 半契約(half-way covenant)という言葉そのものは、一八世紀ジョナサン・エ
ドワーズの信奉者たちが信仰的に新生を経験していない親たちの子どもへ、洗礼を与
えるべきかどうかをめぐって議論した一七六○年代頃に作り出されたと推測されてい
る。Cf. Robert G. Pope, The Half-Way Covenant.
12 Donald E. Stanford, "Introduction," The Poems of Edward Taylor xix.
13 Thomas H. Johnson, "His Poetry" The Poetical Works of Edward Taylor 26; 
Sidney E. Lind 524; Donald E. Stanford, "Edward Taylor and the Lord's
Supper," XXVII, 2, May, 1955, AL: 172-78.
14 テイラーの性格を浮き立たせるように思えるのが、ウェストフィールド行きの誘
いに対する彼の優柔不断な対応と現状追認型の性格である。はっきりと返事をしてい
ないのに、トマス・デゥーイが彼の様子から誘いを受けるものと判断し、テイラーの
ほうはその判断をどうして納めたものか分からずにいるうちに、結局、ウェストフィ


ールドへデゥーイとともに出発することになる。("Diary of Edward Taylor,": 16-
17)しかも、ウェストフィールド行きに気が進まなかったはずなのに、ひとたびそこ
に落ちつくと、決してそこから出ようとはせずに、ついには、その地の墓地に埋めら
れてしまう。この性格は、ストダード主義へ反対し続けたことや、教会をこれまでと
は違う場所に立て直したときに新しい建物では説教をしたくないと言い張った事実 (
Samuel Sewall, "Letter-Book of Samuel Sewall," Collections of the
Massachusetts Historical Society, 6th Ser., 2 vols., [Boston: Massachusetts
Historical Society, 1886-88] 145) が指し示す頑固さとは矛盾しない。頑固な現状
維持は、実は、時代や国境を越えて、新しい事態にうろたえがちな大多数の人間の選
ぶ道である。
15 Cf. Roy Harvey Pearce, The Continuity of American Poetry (Princeton: Pri
nceton UP, 1961) 57.
16 Donald E. Stanford, "Introduction," xxii.
17 Norman Grabo, "Edward Taylor's Spiritual Huswifery": 560. ただし、スィ
ーウォールの子どもが亡くなったときに書いたお悔やみの手紙の中に同封されて贈ら
れている「結婚、そして、子供の死」も同じ形式である。Samuel Sewall, The Diary
of Samuel Sewall: 1674-1729, ed. M. Halsey Thomas, 2 vols. (New York:
Farrar, Straus and Giroux, 1973) 250; Constance J.Gefvert, Taylor: An
Annotated Bibliography 1668-1970 (Kent UP, 1971) 10.


18 Edward Taylor, The Poems of Edward Taylor ed. Donald E. Stanford (Hew Ha
ven: Yale UP, 1960) 467. 以下、引用は全てこの版による。翻訳は、全て筆者が行
った。
19 「縮絨」を重視した論文に、John Higby, "Taylor's Huswifery," XXX, 7, Item
60, March 1972, The Explicatorがある。しかし、「染め」と「織り」への言及を欠
いた「同じ題で」("Another upon the Same "The Poems of Edward Taylor" 468)
と比較すれば、「主婦仕事」では、織物製造を一連の工程で捉えようとしていること
が明らかであろう。
20 Proverbs xxxi. 19: "She layeth her hands to the spindle, and her hands h
olds the distaff."  Cf. Thomas M. Davis, A Reading of Edward Taylor
(Newark: U of Delaware P, 1992) 39-40; Norman Grabo, "Edward Taylor's
Spiritual Huswifery": 556.
21 たとえば、Norman Grabo, "Edward Taylor's Spiritual Huswifery": 554-60; K
arl Keller, The Example of Edward Taylor (Amherst: U of Massachusetts P,
1975) 183; Michael Joseph Schuldiner, Gifts and Works 111など。
22 植民地時代のピューリタン社会では、普通によく描かれる葬式用の服装よりは、
明るい茶や灰の生地で仕立てた服装をしていたが、装飾や、きらびやかな服装、派手
な色彩は厳禁されていたという。John C. Miller, The First Frontier: Life in Co
lonial America (Boston, UP of America, 1966) 108-21.

23 Donald E. Stanford, "The Parentage of Edward Taylor," XXXIII, 2, May, 19
61, AL: 215-221.
24 The Poems of Edward Taylor 60-61.
25 「エレミア書」2. 2, 32;「マタイ伝」22. 1;「黙示録」19.7, 21. 9。
26 Anne Bradstreet, The Works of  Anne Bradstreet (Cambridge: Harvard UP, 1
967) 292-93.  Emily Dickinson, The Complete Poems of Emily Dickinson, ed.
Thomas H. Johnson (Boston: Little Brown, 1960) 222.
27 後に第一の妻となるエリザベスへの求婚の手紙の中で、テイラーは、彼にとって
、女や妻が教え諭す対象であることを示している。William B. Goodman, "Edward Ta
ylor Writes His Love," XXVII, 4, 1954, New England Quarterly: 510-15.
28 たとえば、『備えのための瞑想』I:38に、「わたしの罪は真っ赤です。わたしは
、神に捕まっております」とある。The Poems of Edward Taylor 62.
29 Louise J. Kaplan, Female Perversions: The Temptations of Emma Bovary (Ne
w York: Doubleday, 1991) 242-43.
30 Kenneth Lewes, The Psychoanalytic Theory of Male Homosexuality (New York
: Simon and Shuster, 1988) 22-47.
31 クレイグ・オーウェンス「他者の言説」、ハル・フォスター編『反美学ーポスト
モダンの諸相』室井尚・吉岡洋訳(東京:勁草書房、1987)108。

Oriental theraphy Don't be afraid!

    Acupuncture is an Oriental theraphy, of which origin no one knows clearly, but it is easy to guess; the human being is doomed to suffer from pains and diseases, and it has been struggling to find theraphies in many ways: suppose, then, someone discovered by chance that to put a needle in the damaged part of his body decreased its pains!!!Acupuncture has a more than three thousand year history in China and has been more activated in the leadership of soldiers of the Red Army who are not at all doctors nor surgeons, but more passionate amateurs who sympathize with the poor and the diseased.
      Now I will describe the process of acupuncuture.
      First of all, proper acupoints must be chosen. They are different from person to person; they differ from day to day even in the case of the same disease in the same person. An acupuncturer feels the skin of a patient carefully, and he finds some points colder, softer, rougher, or rockier than those parts of skin which surround them. The difference shows what the patient suffers from. Talking and understanding between acupuncturer and patient make the acupuncture therapy easy and comfortable,and make the time shorter to find proper acupoints.
      Now disinfection should be done to fingers, palms, needles, and acupoints with a piece of rubbing cotton soaked in ethanol or alcohol. Some people believe that needles may cause a pathogenic activity, but it is one of prejudices accupuncture suffers from. The easiest and safest way to keep the patient from contageous dangers is to ask him/her to keep their own acuneedles for themselves.
      Disinfection is surely effective, and acupuncture is much different from injection, for the former puts finer needles safely through cells, and rarely causes bleeding, while the latter puts bold and razor-sharpened needles into the skin, destroys tissues and cells, and always causes bleeding.
      After disinfection, the acupuncturer holds tightly the end of the needle's grip with his thumb and index finger. He guides the needle's pinpoint with his thumb and index finger of another hand, and puts it into the skin as fast as possible. Putting it slowly may cause some pain, for it stimulates nerves which expand like a network 0.5 to 1 mm deep under the skin.
      After the needle has passed through the nerves, he takes a time of five to ten seconds just for the readjustment of the needle's direction. Then he begins to put it in again slowly , feeling for a proper acupoint. When it arrives there, his needle feels heavy; the feeling of heaviness is the sign that it has really reached the acupoint. Simultaneously the patient may say something like "It feels like an electricity, "It is comfortable,'" or "Ouch!" He stops it there and then for five to ten minutes, turns it to and fro, or shakes it, every now and then. Instead of turning and shaking, he may put and burn a small cone of moxa on the top of the needle, or he can also give an electricity with an electro-therapeutic apparatus. Heat and electricity are effective stimuli to the body organization.
      When the time is up, he makes sure the skin around the acupoint has turned into a red or pink color, which tells him that the needle has worked well. The healthier a patient is, the sooner his skin turns red or pink. Now he withdraws the needle slowly in the same manner with that of putting it in, and when he has withdrawn it, he puts one of his fingers on the very acupoint for fear of bleeding.
      Acupuncture causes no side-effects, and cures any disease; even cancer will be cured in the near future, for some report from China has shown that they discovered the proper acupoints for cancer. Medications and operations cost high, and are dangerous.
    It is worth trying; everybody can try it. But try it first with your body. It is the best and shortest way to know it.

英語なんか怖くないー英文学の教え方


 文学教育は、あらゆる学問・教育の基本です。読み書き能力を深め、自他を知り、自他と通じ合う点で、理科系も含めて全ての学生がまず学ぶべき基礎科目のひとつです。特に、批評的精神が希薄な日本社会では、表面的なアメリカナイズと軽佻浮薄さが深刻となり、同時に、テクノロジーが人間関係を希薄にするなかで、文学を同一空間で学ぶ重要性は、ますます増大するばかりです。とりわけ、外国語文学は、文化相対主義の学びと批評精神を育むうえで非常に重要であり、なかでも、英文学は、善し悪しを別にして、現在世界をリードするアメリカ・イギリスの知性と感情の個人的な生の部分に直に触れる点でも、その教育効果は計り知れない。

(1)英文学を学び始めた学生にはアンケートを行い、感銘を受けた日本文学、外国文学、および、文学以外の書物をあげてもらい、その結果を集計・発表して、読書への刺激を与える。同学年・同クラスが自分の知らない本を読んでいると知ることは、新鮮な驚きであるらしい。また、これによって、文学や本の話をしても平気なのだのだという、基本的に文学部にとって必須だが、今となってはなかなか醸成しずらい雰囲気をもたらす一助となる。ただし、学生アンケートで挙がる本はあまりにも最近作だったり、内容が薄かったりすることが多いので、後に、英米文学を含めた古典の読書リストを示す。古典の要点は、時代・民族・言葉を超えて、魂に響くものであること、人類の知恵であること、他者がじぶんに成り代わって生きてくれた貴重なモデルであり、学びの宝庫であることでしょう。課題として、リストのなかのどれか1冊を読んでレポートを書くようにと促す。

(2)英文学の授業は、自己表現能力・コミュニケーション能力の啓発・育成を基本的目標とする。英米文学科の学生たちは、爆発的な潜在能力を持っている。これに着目せず、教員が教室で君臨するほど見苦しい。質問の出ないクラスほど悲惨である。個人的な授業の工夫に過ぎないが、私の授業では毎回、グループごとの口頭発表・討論形式をシステマティックに導入し、クラスによっては、ディベートや作品論発表を義務づけ、グループごとの優劣を競うなかで、客観的検証能力、論理的説得・議論能力、立証能力、尋問能力などを培ってゆく。教材は、英米文学から取るが、教室内での使用言語は日本語である。英語の運用能力を培うには、別のクラスが用意されている。信頼すれば学生は必ず応えます。

(3)現代の日本の英文学教育で問題・課題だと思われる点は、まず第1に、説明責任を果していないこと。実利に辛い現代日本社会において、大学教育に英文学教育が必須であることをみずから説得的に語ることにより、学内や社会を納得させねばならない。
 第2に、研究中心の教員が圧倒的に多く、教育に工夫がないこと。大学は、教育が基本です。ただし、個人として教育方法を工夫しても、それは地の塩どころか、海の塩にもなれない。大学や学部・学科全体として、FDのための方策をとる必要がある。たとえば、お互いの授業を参観して批評しあい、学びあう制度を導入するべきでしょう。
 第3に、文学を教材とすることに自信を持つこと。時代風潮・概念、あるいは、文化的説明で、人を理解することは出来ません。個々人の生きざまを知る文学でしか学べないことがたくさんあります。この変動の激しい日本社会を生き抜くうえで、文学は、ささやかだけどとても大切なことを教えてくれるでしょう。
 第4に、教員同士の相互学習が必要だと思う。評価基準もまちまちである。
学びあう制度を導入するべきでしょう。放置していても、論文に対しては、そうしているのだから。
 第5には、文学を教材とするにしても、もっと授業のやり方に工夫を凝らすこと。たとえば、訳読は、それ自体が悪ではない。訳する行為、訳語の選択に、その人の人生全てが現れるといても過言ではない。訳読にこだわるのなら、その良さを生かし、その能率の悪さを改善するような方法を考えるべきだろう。あるいは、書評を英語で書かせるという方法もある。

英語なんか、恐くない -文化相対主義への学び


わたしは、なぜ、教師になったのだろうか。
とりわけ、なぜ、アメリカ文学の教師なのだろう。そして、一体、何を教えることができるのだろうか。
どこの大学に限らず、英米文学科の学生たちの多くは、言葉が上手に使えない。発表は、手際が悪いし、質疑応答も歯がゆい。レポートの文章も上手とは言えない。あるいは、小綺麗にまとめるが、これぞという力が、発表からもレポートからも伝わらない場合が多い。だいたい、既に6年間習って、どうして、英語を話せないのか。
実は、これは、当たり前なのだ。
ただし、それは、話せる・聞ける英語教育が施されていないとか、もともと、発声に使用する器官や筋肉が違うし、息の出し方も違うという事実を英語教育が無視してきたからと言うのではない。むしろ、第2次世界大戦敗戦後の日本社会に育ち、かつ、英米文学科に進学した者たちは、いわば、現在の日本文化が蒙っている英語支配、アメリカ支配の現状を、象徴的に体現しているためだと言ったほうが、正しいだろう。わたしの場合も、その1事例にすぎまい。

わたしの生まれ育った北海道札幌は、当時、自衛隊と宣教師に溢れた町だった。父は、そこで、お菓子屋だったが、英字新聞の袋に煎餅を入れて売るのが評判だった。旧来型の「父」である彼は、家で君臨し、わたしとその兄弟は、食卓で言葉を許されず、彼の声を聞いていた。ハーシーのチョコレートを食べてよいのは、クリスマスの時だけだった。その父が、毎晩、辞書を片手に、NHKラジオの英会話を聞く。そして、「英語ができなければ、将来、つかいものにならない」と毎度、宣言していた。誇張すれば、わたしは、いわば、2重の支配下にあったのだと言える。
わたしが、だから、英語と出会い、アメリカ文学を志したことを、歴史の必然と見なせもしようし、また、フロイド的な解釈もできよう。「父」とは、文化に他ならず、文化とは、結局、言葉に他ならない。したがって、日本と世界の現状が、アメリカの優越を許している限り、英語の優越は、克服しにくい。
すると、個別の差を無視して、英米文学科生の共通項を探せば、英語の呪縛、英語による抑圧だと言えよう。そして、それが日本文化の反映ならば、動機付け弱い学生が多いのも頷ける。英米文学科には、英語の嫌いな学生は来ないし、逆に、英語に堪能な学生も意外と少ない。(ただし、当然だが、そうした学生が、日本文化の支配と、そのうえに君臨する英語支配から、免れているとは、限らない。)英米文学科の学生は、大抵、所謂「いい子」である。もともと、英語は、言語だから、たとえ、読み・書きが中心であろうと、毎日学習しなければ、力は付かないし、伸びないから、毎日、机に向かう真面目な学生が多いためだ。
これを別の観点から言い換えると、そういった学生をこそ、日本社会が求めていると言えよう。つまり、英語の科目で良い点数を取るのは、実は、社会の要請に応えることなのである。そして、社会へ人材を送り出すべく運命づけられている大学は、受験科目に、理科系、文科系を問わず、英語を必修としている。

すると、もしも、わたしが学生と接して、なにかできることがあるとすれば、それは、あたかも「父」のようにクラスで君臨することではなく、アメリカ文学教育や英語教育を通して、自国文化の桎梏と英語支配に気付くこと、そして、最終的には、あらゆる文化を相対化する視点を獲得し、自己を自由のほうへ開放する方法を、共に、学ぶことだろう。
どこまで成果が出るかは、たぶん、20年先にならないと測れない、いや、とりわけ、外国語による文学教育の成果は、永久に測れないのかもしれないが、今のところ、わたしの基本方針は、1.学生の自主的なクラス運営、2.言語訓練、3.思考訓練、4.シラバス(年間計画表)と授業評価の4つになるだろう。
第4項のうち、シラバスには、1年間の予定が詳細に記され、原則として、クラスは、その予定通りに行われる。授業評価表は、最後のクラスで、学生たちによって記入される。今のところ、これは、じぶんの授業改善と工夫に役立っているだけだが、もっと適切な問いや、もっと上手な利用方法があるのかもしれない。1例をその結果と共に示したので、ご批評くださればありがたい。
前の3項を満たすために、ディベートや口頭発表がある。この際、ゲーム感覚を導入しティーム同士が競う形をとる。進行役は、もちろん、学生たちだ。狙いは、英語で書かれた文学作品を、自分たちと対等だが異質のものとして尊重しつつ、批評的に読み語る能力を培い、育てることにある。
一般教育の英語の授業でも、日本語によるディベートを行う。たとえば、米の自由化問題に関する英語ニュースや解説記事を学生が探して、1週前に配り、クラスはこれを予習し、発表の時には、学生の司会で、英語資料の読解と、「米を即時全面自由化せよ」という論題で、肯定・否定に分かれて、ディベートが行われる。事の善し悪しは別にして、あるクラスでは、英字新聞を小脇に抱えて通学するのが、ファッションになる。あるいは、意見と人格を切り離せない日本文化に規定されて、ディベートの勝敗が人格への好悪に直結し、結果、友人を失ったという訴えも、最終レポートに見られた。
課外授業としては、春と秋の2シーズン、大学院生やゼミの学生が中心になって、英語集中合宿を行う。既に5回を数えるが、この略称、ICAL(=Intensive Camp of American Literature)とは、"I call"すなわち、「わたしがよばわる、わたしが声を出す」ことが含意されている。

このキャンプでは、日本人同士で英語を話すので、初め、学生たちは、たじろぐが、すぐに慣れる。プログラムには、「英語ニュースの内容理解」、「ミュージック・トランスクリプション」(歌詞を書き取る)、「ラウド・スピーカー」(ネイティヴのしゃべる英語をイヤ・フォンで聞きながらその通りの声を出す)、「ラスト・スタンザ」(既成の英詩の最終節を、じぶんたちで作る)、「破壊と再構築」(段落の順序がばらされた短編小説をもとの順序に組み直す)などがある。学生同士が仕事を分担し合って、互いの英語力を鍛え合う。そして、毎晩、アメリカ文学の作品を素材に、「傑作か否か」でディベートを行う。最後の夜には、即興で英語劇だ。キャンプ初日には英語がなかなか出なかった学生も、流暢に役をこなす。それは、英語による支配から抜け出て、英語を使用する段階へ向かう第1歩だろう。
キャンプ生活は、これまで山梨の寺で行われているが、どの場面でも英語を話すのが原則なので、わたしたちのおしゃべりをもれ聞いた、寺に出入りする人が、和尚さんに、「あの人たちは、フィリピンから来たのか」と聞いたという。和尚さんが、「ノー」と答えると、「では、香港から来たのか」。
まだ、キャンプ途中で逃げ出した学生はいない。
もう1つの課外授業として、イサカのプログラムがある。わたしが1987年に1年間留学したニューヨーク州イサカで、III(=Ithaca Intercultural Institute: イサカ文化交流協会)をアメリカ人の友人と共に設立し、そこで、毎夏、「アメリカをめぐる冒険:文化と言語学習の旅」というプログラムを行う。イサカは、以前、『アメリカの小さな町』というルポルタージュ風の本で紹介されたが、アイヴィー・リーグに属するコーネル大学の町と言ってよく、国際的で、かつ、かなり安全で自由な町の1つだ。アメリカでは稀な、社会党の市長を生んだり、ヴェトナム難民を300人以上受け入れて、町ぐるみで、彼らにヴォランティア活動を行ったりする。
このプログラムへの参加者は、学生だけではない。立教の職員、他大学の学生、大学院生が参加する。これは、立教大学の単位に振り替えられるように、いくつかの部局や委員会に打診したが、断られたことを逆手に取って、参加資格を、立教大学の学部生以外にも開いたためだ。
具体的なカリキュラムは、別掲の表を参照していただきたいが、ESLのクラスが3つ用意されて、英語力を個別に、かつ、飛躍的に伸ばすし、イサカをフィールド・ワークの対象として、アメリカ文化の一端に触れるクラスもある。ホスト・ファミリーとの交流は、貴重な体験だろう。帰国後、アメリカだけに限らず、海外へ長期留学したり、留学が決まった学生も少なからずいる。
イサカへの旅は、実は、これに参加しようと考えた時から始まる。心の準備、親の説得、費用の捻出、英語の学習など、出発前に必ず、「文化」との摩擦がある。近年は、危険な国「アメリカ」のイメージが強く、親がどうしても賛成せずに、参加を諦めた学生もいる。

英語なんか怖くない。英語のできる者が必ずしも、知性において優れているとは限らない。アメリカでは、保育園の子どもでさえ、英語をしゃべる。大切なのは、英語がぺらぺらになることではなくて、外国語や外国文化との接触をきっかけにして、思考力や言語能力を訓練することだろうし、その結果、自分の内なる言語文化を相対化することだろう。外国語を学ぶことは、結局、あらゆる文化支配から自由になることなのだ。

プロフィール

渡辺信二 (Watanabe Shinji)

 立教大学 文学部英米文学科 人文研究科英米文学専攻 教授
1968年3月 北海道立札幌東高等学校卒業
1973年3月 東京大学文学部英語英文学科卒業
1977年3月 東京大学大学院人文科学研究科(英語英文学専攻)修士課程修了
1977年12月 東京大学大学院人文科学研究科(英語英文学専攻)博士課程中途退学


茨城大学人文学部助手・講師、東京学芸大学教育学部講師・助教授をへて、1991年4月より、立教大学文学部教授 現在にいたる
 1994年より、教務部副部長 現在にいたる
1987年~1988年アメリカ合衆国ニューヨーク州 Cornell 大学フルブライト若手研究員:エズラ・パウンドにおける詩学の発展
1995年度~1997年度一般研究(C) 代表 アメリカ植民地時代における宗教と創作の関係 日本アメリカ文学会(1992年より本部編集室幹事)、
日本エズラ・パウンド協会(1991年より評議員)、
日本英文学会(1994年より編集委員)、
日本現代詩人会、アメリカ学会会 モダン・ランゲージ・アソシエイション(MLA) 1992~94年度 Ithaca Intercultural Institute Co-Director
1995~96年度 St.Paul Intercultural Societry Director



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 主たる研究分野は、アメリカ詩である。 19世紀の詩人たち(エドガー・アラン・ポー、エミリ・ディキンソン、ウォルト・ホィットマン)や20世紀のモダニスト(エズラ・パウンド、T.S.エリオット、ウォレス・スティーヴンズ)、あるいは、現代詩人(A.R.アモンズ、ジョン・アッシュベリ)を経て、現在は、植民地時代の詩人たち(アン・ブラッドストリート、エドワード・テイラー)に学んでいる。

 授業の目標: 
文学作品は文化の精髄のひとつと言えるが、授業ではジャンルにとらわれず、詩・演劇・小説など主としてアメリカ文学をテクストとしながら、主体的にその読み方を互いに問い、考え、文章を書き、それをもとに議論しながら、口頭及び文章による自己表現能力を培う。結果として、新しい自己と他者を発見する。

 主たるテーマ: 
アメリカ詩学の本質と変貌、アメリカニズム、日米現代詩の比較、アメリカ人に恋愛は可能か、論理的な思考 vs.文学的な想像力。 担当授業: 「アメリカ文学特殊研究(対象詩人は、エドワード・テイラー、ウォレス・スティーヴンズ、エミリ・ディキンソンなど)」、「英米文学演習」、「英米文学基礎演習」、「英米文学方法論」、「集中講義」。 キーワード: アメリカ詩、ホィットマン、パウンド、エリオット、アモンズ。

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主たる著書・論文:

 1)著書・共著
 (1)『文学とアメリカ I 』(共著:大橋健三郎教授還暦記念論文集刊行委員会編) 南雲堂  1980年8月
(2)『遥かなる現在』(単著:詩集)   国文社 1984年11月
(3)『エズラ・パウンド研究』(共著:福田陸太郎・安川晃編) 1986年10月
(4)『愛する妻へ』(単著:詩集) 思潮社 1989年3月
(5)『不実な言葉/まことの言葉』(単著:詩集) 書肆山田 1991年3月
(6)『喪神の彼方をー21世紀への詩・短歌・評論』(共編著)  国文社  1991年7月 (7)『文学アメリカ資本主義』(共編著) 南雲堂 1993年1月
(8)『まりぃのための鎮魂歌』(単著:詩集) ふみくら書房 1993年11月
(9)『荒野からうた声が聞こえる:アメリカ詩学の本質と変貌』(単著:研究書) 朝文社  1994年1月
(10)『見つめあう日本とアメリカ:新しい異文化の交差を求めて』(共編著) 南雲堂 1995年4月
(11)『<幻実>の詩学』(共著:田村英之助監修) ふみくら書房 1996年3月 「さびしい海に囲まれて --日本現代詩への希求」(立原道造と伊東静雄を論じる)
 (12)『読み直すアメリカ文学』(共著:渡辺利雄編) 研究社 1996年3月
(13)『文学批評のポリティックス』(共著:後藤昭次編) 大阪教育図書 1997年3月 (14) Spell of a Bird(単著:詩集) Vantage Press, NY 1997年9月
(15)『アメリカ文学の冒険:空間の想像力』(共著:原川恭一編) 彩流社 1998年3月
(16)『アン・ブラッドストリートとエドワード・テイラー:アメリカ植民地時代の宗教と創作の関係について』(単著:研究書) 松柏社 1999年3月

 2)論文
(2)The Minister's Black Veilについて 1976年9月 『ろん』(アメリカ文学研究評論誌) 第12号 pp.35-41 「論」同人会
(3)欺瞞と自己欺瞞: Young Goodman Brownについて  1977年5月 『ろん』(アメリカ文学研究評論誌) 第13号 pp.14-22「論」同人会
(4)Ethan Brand:その解釈と再評価 1978年6月  『ろん』(アメリカ文学研究評論誌)第15号 pp.31-39  「論」同人会
(5)W. B. Yeatsの詩法 1979年3月 『茨城大学人文学部紀要(人文学科論集)』 第12号 pp. 1-31 茨城大学
 (6)ホイットマン的図式 1979年7月 『アメリカ文学』(日本アメリカ文学会東京支部会報)第37号pp.25-31  富山房
(8)E. A. Poe:密室性の想像力 1980年8月 『文学とアメリカ I』(大橋健三郎還暦記念論文集)  pp.19-35  南雲堂
 (10)『響きと怒り』の文体分析 1981年12月 『ろん』(アメリカ文学研究評論誌) 第18号 pp. 55-76    「論」同人会
 (11)The Scarlet Letter :多視点小説とその謎 1982年2月 『東京学芸大学紀要第2部門人文科学』 第33集 pp. 115-125 東京学芸大学
 (12)ワーズワース:比較による詩化 1982年2月 『英学論考』 第13号 pp. 96-107 東京 学芸大学英語教育学科
 (13)対応の文体:『ある婦人の肖像』再読(1) 1982年12月 『アメリカ文学』(日本アメリカ文学会東京支部会報) 第41号 pp1-11   富山房
 (15)語りの自覚的制限と3つの技法:ギャッツビーの夢のほうへ 1983年2月 『英学論考』 第14号 pp. 38-52    東京学芸大学英語教育学科
 (16)イザベルの行方:『ある婦人の肖像』再読(2) 1983年8月 『アメリカ文学』(日本アメリカ文学会東京支部会報) 第42号pp. 33-41    富山房
 (17)荒地における詩人(田村隆一論) 1984年2月 『英学論考』 第15号 pp. 27-37     東京学芸大学英語教育学科
 (18)アメ・フットにおけるアメリカ性 1985年2月 『英学論考』 第16号 pp. 34-39    東京学芸大学英語教育学科
 (20)アメリカ文学におけるアメリカニズム 1990年2月 『英学論考』 第21号 pp. 94-107     東京学芸大学英語教育学科
 (24)回避する詩学:谷川俊太郎論 1991年7月 『喪神の彼方をー21世紀への詩・短歌・評論』所収 pp. 53-66      国文社
 (26)沈黙の代償:「13の方法で見る1羽の黒鳥」でスティーヴンズは何を生きたか 1991年12月 『zetplaza』、1991年12月号、 pp. 28-32     増進会出版社
 (28)Tao vs. Logos: Japanese Perception of American Multiculturalism    1992年10月  A Yearbook: Ithaca Intercultural Institute 1992:20-25.    Ithaca Intercultural Institute
 (35)アメリカン・モダニズムと女性像:スティーヴンズ、パウンド、エリオット、ウィリアムズ『聖徳大学総合研究所論叢6、1998』    1999年3月

 4)翻訳
 (1)『アメリカ名詩選:アメリカ先住民からホイットマンへ』東京:本の友社